2016年12月19日月曜日

あなたのカラダは誰のもの?―プラスサイズモデルNaoさん講演会


すでに5回目を迎えた「からだのシューレ」。今年最後の企画は、プラスサイズモデルNaoさんの講演会!Naoさんについては、私がたまたまネットで記事を見かけたことがきっかけです。「講演会なんてしたことないです(汗)」といいつつ、「私の経験が誰かの役に立てれば」ということで、この企画が実現しました。


ラファーファのNaoさん。かっこいい!!


ふだんから雑誌やテレビなどメディアに出ていらっしゃるので、人前で話すなんて余裕だろうと思っていたら、講演の1時間前のNaoさんのツイッターのフィードに「緊張してきた…」の文字が。思いの外緊張していらしたようで、実際にお会いしたら本当に緊張していました(笑)



講演会には40人弱のみなさんがいらしてくださり、講演会がスタート。

Naoさんは、17歳から25,6歳まで拒食・過食を繰り返し、体重の変動は20キロ近くだったこともあったといいます。講演会の前半戦は、Naoさんがこの状態をどう抜け出していったかに焦点が置かれました。

面白かったのが、Naoさんがその道のりをドラゴンボールに例えていたこと。7つ集めたら願いがかなうというドラゴンボール。Naoさんにとってのドラゴンボールは「やせる」ということで、そしたら何かもっといい人生が待っているんじゃないか。そんな風に考えていたのではないかとNaoさんはご自身を振り返ります。

でもそんなドラゴンボールは実は存在していなかった。

「このままの体型でいいんじゃないか」、そう思えるきっかけを少しずつ集めたことがいまの自分につながっているとNaoさんは話されます。

Naoさんが悩んでいるときに、離島のおばあちゃんを訪ね、おばあちゃんから「あんたは何にも悪くない」と言われて涙を流すところは、こちらも思わず泣きそうでした。

またモデルになってから気づかれたことについてもお話しくださりました。太っている人、ぽっちゃりしている人に対して私たちが抱きがちなイメージが、いかにメディアによって作られていること、太っている人はなぜ笑いの対象になるのかなど、私たちが普段何気なく通り過ぎてしまうことに疑問を投げかけてくださり、まさに「モデル界の文化人類学者」(←命名、いその)としてのお話しが次々と続きました。




そして講演会後半は、Naoさんへの質問コーナーに突入。

「自分に素直になるってどういうことですか?」、「Naoさんにとって幸せって何?」といったかなり哲学的な質問から、「健診などで、このまま行くと不健康になりますよ。やせなさい!と言われたらどうしますか?」といったかなり具体的なものまで多くの質問が寄せられました。

それぞれの質問に対する、Naoさんの受け答えを聞いていて印象的だったのが、人から言われたことと、自分との間にワンクッション置くことを大事にしているということ、物事を1つの側面に光が当てられたら、違うところからも見られるんじゃないかと考えることを大事にされているということでした。

Naoさんの言葉の中に、「変わったのではなくて、気付いた」という言葉があり、これは自分自身を変えようとしたのではなく、いままでとは違う形で世界が見られることに気付いたことで、結果として変わったという意味だったのですが、まさにこれが「からだのシューレ」の目的です。

このことを私たちは「社会と身体の間にスキマを作る」という言い方で表現しいたのですが、「変わるんじゃなくて、気付く」というよりインパクトがあり、かつエッセンスを突いている、Naoさんの言葉も使わせていただきたいところです。(Naoさんいいでしょうか?)

講演会は盛会の後に終わり、多くの感想を頂きました。一部紹介しますね。
Naoさんの周りに流されない芯の強さにふれられてとてもうれしかったです。 
社会と自分の間にスキマは作れるんだ、と気づけた時間でした。気持ちが楽になりました。今後、就活・就職などで失敗した時、極端に落ち込むことがなくなりそうです。本当にありがとうございました。 
 今私は過食症を患っており、ふつうに食べることができれば良くて、過食しては気分は落ち込み生き辛いなと感じることが多々あります。そんな中でも、今回の「からだのシューレ」で新しい考え方、社会に対する見方を学びました。当たり前を疑う大切さを感じました。 
Naoさんが体験されたことや、そこから見出された考えや気付き、それを力強い言葉で語られていることがとても素晴らしく、とても素敵な方だと思いました。もっともっといろんな場面で発信していかれることを期待します!

今年最後の「からだのシューレ」は、Naoさんの素晴らしいお話のおかげで大成功の裡に終えることができました。Naoさん、ご来場くださったみなさま本当にありがとうございます。

そして、そして、「からだのシューレ」は来年も開催されます!文化人類学を中心に企画を考えてゆきますので、ぜひお気軽に足を運んでくださいね。

みなさま、よいお年を!


来年も鳥が飛びますよ



2016年11月16日水曜日

東田直樹 『飛び跳ねる思考』


人の目に映る自分の姿を想像しただけで、
この世から消えてしまいたい気分になります。
僕が抱えている心の聞は、どんな魔法をかけても消えません。
人は誰でも、心に傷を抱えながら生きているのではないでしょうか。
その傷が、すぐに癒える人もいれば、
いつまでも消えることなく残る人もいます。
そして、僕のように暗閣の中で悲鳴を上げ続ける人もいるのです。 
・・・ 
苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。
目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。
見ている僕はひとりぼっちなのに、
世界中の人とつながっている気分になります。
自然はどんな時も、人々に平等です。
そのことが僕の心を慰めてくれるのです。
お日様は頭上を照らし続け、風は四六時中、僕の隣を通り抜けます。
木々の緑は美しく、空気は澄んでいます。
こんな自然の中でなら、ありのままでいられるのです。
つらい気持ちは、どうしようもありませんが、
ひとりではないと思える瞬間が、僕を支えてくれます。


東田直樹 『飛び跳ねる思考』


大ベストセラー『僕が飛び跳ねる理由』を書いた重度の自閉症者、東田直樹さんの著書から。彼の文章は心にまっすぐやさしく届いてきます。たぶんそれは彼がまっすぐやさしく文章を書いているからなのでしょう。

そんな文章を書くことは、自分の心をそのまま出すことなので、簡単そうでなかなかできないことなんだと私は思います。

会話のできない自閉症の僕が考えていること

2016年11月13日日曜日

小久保さん、守里君ありがとう


今週火曜日は国語教師ボクサー小久保さんの3年8ヶ月ぶりの勝利。

本日日曜日は、東日本新人王決勝戦での守里君の敗戦。

リング中央で勝ち名乗りを受けながら涙を流す小久保さん。

観客席にガッツポーズをする対戦相手の側で、コーナーポストに両手を付け、うつむき涙を流す守里君。

どちらの涙も私の中で忘れられない涙になった。

溢れる涙はこの瞬間に全てをかけた証。

勝利の涙は過去の自分に。
敗北の涙は未来の自分に。

そんなことを教えてもらった2人の試合でした。素晴らしい試合をありがとうございます。

2016年10月25日火曜日

私たちはいつ、人の目線で自分を見るようになるんだろう


ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさをきりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある鏡だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「自己満足」、という言葉に置き換えられた(129)

今回の「からだのシューレ」はいつもよりサイズを半分に縮小し、1部と2部に分けての読書会。とりあげたのは西加奈子さんの「きりこについて」です。




参加者は10代から50代までの女性と男性。

生きた年月もやっていることも大きく違うみなさんでしたが、皆さんどこかのタイミングで、他者から自分がどう見えているのかを気にするようになり、時にそれにとらわれてしまう経験をお持ちであることが印象的でした。

うちも自分のこと、ものすごくかわいいって思っていたやんか!(192-193)

学校でぶすだとののしられ、いじめに遭いとうとう登校拒否になるきり子が、こう気づくシーンがあります。

ここについて大学生の参加者からこんな発言がありました。

「小さいころの自分を思い出すと、私もそうだったんじゃないかと思います。親が無条件に愛してくれる。かわいいってどういうものかもわからないし、世間のかわいいもわからない。いまは雑誌に載っているモデルとかに影響されているけど、そういうのをいつから気にしだしんだろうか。どうして無条件に満足できていた自分では足りなくて、他からも求めてしまうのはいつごろだったのだろう?」

幼いころは、他人がどう見ているかなんて全然わからず、自分がどうしたいかしかわからないですよね。ところが私たちは次第に周りが自分をどう見ているのか、世間の尺度にあっているのか、年相応のことができているのか、デブじゃないか、ブスじゃないか、お金があるか、そんなことを気にしだしてがんじがらめになり、気付いたら自分が何をしたいのかわからなくなる―

こういうことを経験した方は多いのではないでしょうか?

私が4年にわたりインタビューをさせてもらった拒食・過食を経験した方たちも、他人の目というのにがっちがちに縛られていた局面があったような気がします。

でもこれはうまく食べられなくなった人たちに限らず、私たちみなが陥ることですし、世間にはふつうとか、常識とか、そういう言葉で他人の目に縛り付けようとするメッセージにあふれていることも事実です。

今回取り上げた「きりこについて」は、自分らしくすることの大事さを一方で強調しながらも、あるべき形からはみ出る人々を排除する社会との中で、どう生きたらいいのかを考えさせてくれる小説でした。

そして次回の「からだのシューレ」は、プラスサイズモデルNaoさんの講演会。今回に引き続き「自分らしさ」ってなんだろう、「外見ってなんだろう」ということを考えさせてくれる内容になること間違いなしです。

「やせなきゃ」と思うあなたの気持ちはどこからやってくるのでしょう?

参加制限はございませんのでどなたもお気軽にご参加下さい!







2016年10月23日日曜日

プラスサイズモデルNaoさん講演会



『からだのシューレ』では「身体というマーケット」、「身体と数字」、「ダイエットとけがれ」、「自分らしさ」といったキーワードをテーマにワークショップを行ってきました。 そして5回目となる今回は、プラスサイズモデルのNao さんをゲストにお迎えします。

私がNaoさんをぜひ「からだのシューレ」にお呼びしたいと思ったのは、こちらのNHKの記事がきっかけ。

10年間続いた暗闇を抜け出したのは、26歳の時。
出版関係のアルバイトで、芸能人の写真を何千枚と見ていて気付いたことがきっかけでした。

「痩せてるモデルさんみたいな人もいれば、ぽっちゃりしてる役者さんとか、いろんな方がいて。何か私、ずっと体型のことばかり気にしてたけど、そこに縛られてずっとこのまま生きてくのって、もったいないんじゃないかなってだんだん思い始めて。ぽっちゃりしてる体型を受け入れて生きていこうって」

世界についていままでとは違う見方をしたことで、それまでの苦しい道のりから抜けるきっかけを得たNaoさん。まさに人類学ではありませんか!

ということで、Naoさんにお話を持ちかけたところ、社会を少し引いたところから冷静に眺めるその姿勢はまさに人類学者そのものでしした。

「あなたはモデル界の人類学者です!」とは言いませんでしたが(思ったけど)、「ぜひ講演会を」とお願いしたところ、「講演会なんてしたことありません!」といいながらも、「私の体験が誰かの力にもしなれば」と快諾してくださいました。

Nao さんが思春期の頃に悩んでいた拒食・過食の体験、それを乗り越えていくまでの道のり、そしてモデル活動を通して感じた価値観の変化とは……。

「やせなきゃ」と思うあなたの身体は誰のものなのか、一緒に考えてみませんか? 

どうぞご期待ください。

※※※※※


「からだのシューレVol.5 プラスサイズモデルNaoさん講演会」

日時:12月3日 18:30〜20:30
場所:青山ウィメンズプラザ
会費:1000円

お申し込みはこちらから。

1回目から5回めの様子はこちらから。

2016年10月12日水曜日

かもめのたまご、ぶどう。


私の大好物の新作。ぶどうをいただく。

ほんとにぶどうである。

かもめの玉子の右に出るお菓子などいるものか。


2016年10月11日火曜日

BMJ掲載質的研究ガイドラインCOREQ ②―エスノグラフィーの大胆な定義





先回のブログで紹介した、BMJ掲載の質的研究ガイドライン「COREQ」。
それぞれの方法論の定義が大胆すぎてびっくりぽんなので紹介したい。

Theoretical frameworks in qualitative research include: grounded theory, to build theories from the data; ethnography, to understand the culture of groups with shared characteristics; phenomenology, to describe the meaning and significance of experiences; discourse analysis, to analyse linguistic expression; and content analysis, to systematically organize data into a structured format (p351)


これによるとエスノグラフィーは、「ある文化的集団において共有される特徴を理解するための手法」。文化人類学者では絶対できないだろう、大胆な定義にもはやかける言葉がありません…(笑)


これ、エスノグラフィーだけじゃなく、現象学の定義もすごいなと思う。「経験の意味と意義を描き出す手法」、とでも訳せばよいのでしょうか。現象学者の人、これで納得するのかな…。


でもこういうのを見ると、医療系で質的研究をする人にありがちな誤解、つまり「ある方法に則って調査を行えば、『文化が抽出できる』、あるいは『当事者の経験の内実がわかる』はず」のゆえんが見えてくる。

「文化」を描き出そう思い、エスノグラフィーの方法についての本を買って、そこに書いてある手法を1,2,3のステップでやっていけば、対象の集団に共有された文化があれよあれという間に抽出される

―なんてことはありません。


でもこんな権威ある雑誌にこういう風に書いてあれば、エスノグラフィーをやったら文化がわかると思って当然だよね。

エスノグラフィーにしても、現象学にしてもちゃんとやろうと思ったらそれぞれの方法のベースにあるモノの見方、文化人類学や社会学、哲学をある程度押さえておかないとそれなりの成果は出せないはず。

でもそこをすっ飛ばして方法の部分だけとろうとするから、上滑りな研究が量産される。

質的研究の方法について述べた書籍のほとんどは、その名前がどんなものであれ、データを意味内容別にカテゴライズする方法を教えている。でもカテゴリーを作ることは、質的研究の最終目的じゃないし、質的研究で一番難しいところはそこじゃない。


ただ方法論の本に、それ以上のことが書けないのは、質的研究とはどこまでいっても結局はデータの解釈の問題であり、それをどう意義深く解釈するかは、方法ではなく、研究者の見識にかかっているからだと思う。

そして質的研究で最も大事なその部分は、方法の本をいくら読んでも磨かれないのです。

でもみんな方法の本を読んで、方法のことばかりを指摘されて、結局だから、方法ばかりの質的研究になっちゃうんだよね…。

ちなみにデータの分類法に走らず、データの読み解き方を教えてくれているのは『エスノグラフィー入門』(小田博 著・春秋社)です。

質的研究概論IIの教科書として利用中


2016年10月8日土曜日

BMJ掲載質的研究ガイドライン"COREQ"について


医療系大学院に移って質的研究を教え始めて3年目。少しずつ分かってきたことがある。

それはどんな方法使ったの?―現象学?グラウンデッド?エスノグラフィー?
その結果の妥当性は?
客観性は担保できるの?

質的研究に親しんでいる人文・社会科学者だったら、たぶんすっ飛ばしている質問の数々がとにかくなされる。

私からすると、「なんか立派な方法論使って、難しい用語使ってきれいにまとまったように見えるけど、結果でそんな当たり前のこといって、そもそも研究の意味があるのでしょうか?」と突っ込みたいことも多いんだけど、方法がきれいに出されていると認められちゃう研究もあって、いったいどこに評価基準を置けばよいか混乱することも多い。

とくに客観性を連呼されると、「あなた、どこかにそんな立派な『客観性』が存在していると思ってるんですか?」とか言いたくなるけど、そこは言わずに我慢する。

私は統計がものすごく客観的な方法だとは思ってない。ただ、どういう方法と結果であれば「客観性、信頼性があると認めるか」という共通合意はきちんと出来あがっている。

ただ質的研究の場合は、どうやったらその結果に信頼性があるのかについての共通合意がない。だから突っ込まれやすい。


わかんないと眠くなるよね。

そこで今年は、権威ある雑誌であるBMJに掲載された「COREQ」というガイドラインを授業で紹介してみた。選出された22の質的研究およびガイドラインに関する研究から、方法論として共通して出てくるアイテムを32個抜き出したもの。

これを使えばよい質的研究ができるわけではなけれど、とりあえず方法論への終わりなきツッコミはかなり避けられるのではないかと思う。さらにアイテムを一つずつチェックしていくと、自分の研究デザインのどこが強くて、弱いかがわかるのもよい。


COREQは3つのステージに研究デザインの段階を分けて質的研究のプロセスを整理しているんだけど、すべてのステージで言われていることは、決まったやり方があるわけではなく、またデータを解釈する以上研究者の主観が入るのは避けられないのだから、その分、研究のプロセスの透明性を保ちましょうということ。計算式に入れるわけにいかないんだからそうするしかないよね、と思う。

そしていつもこういうの見ていて思うのは、「医療系の研究って人間の「主観」をとことん信頼していないし、もはや悪しきものと思っていませんか?」ってこと。人間じゃないもの―SPSSとか―にいれるとなぜ突然信頼できるものに変わるんだろうか。

人間はそんなにだめなのか?

うーん―


だめかも…(笑)



とにかく言いたいことはCOREQはデザインの上で使う価値があるってことです。

COREQは下記からダウンロードできます。

http://m.intqhc.oxfordjournals.org/content/19/6/349.full.pdf

2016年8月10日水曜日

ダイエットとけがれ―「からだのシューレVol.3」開催報告!

「からだのシューレ」も早いもので第3回目を迎えました。今回は夏休み特別30分拡大バージョン!高校生から大学院生、もちろん会社勤めの方、親子での参加までたくさんの方が参加してくださりました。

入り口では大きなトリがお出迎え

さてさて第3回目のテーマは文化人類学の本丸中の本丸。「けがれ」のお話し。ダイエットをして「身体が汚い」「けがれた」という感じになるのはなぜなのかについて考えていきます。

「目からうろこ」という人も珍しくないけがれの話し
まずみなさんに、「汚い」と直感的に感じるものを出してもらいました。


ハトやゴキブリから、落ちた爪や髪など身体にかかわるもの、さらには下品な行動、嫌いな人といった人間のふるまいにかかわることまで幅広い意見が見られます。

文化人類学の面白いところは、なぜ私たちがこれらを汚いと感じるのかを、1つの理由で説明してしまうところです。汚いというと、ばい菌といった衛生的な理由が私たちの頭をまずよぎりますが、「下品な行動」「嫌いな人」はこの理由では説明がつかないですよね…。

なぜこれらを汚いと感じるのか、段階的にみなさんにディスカッションをしてもらいました。

かなりの盛り上がりを見せました

 そしてみなさんの分析の結果がホワイトボードの青字の部分。「何かの成れの果て」、「余計なものがついた時」、「生物に関係する」、「自分から離れたもの」などさまざまな意見が出ています。文化人類学のけがれ論にかなり近いものも出ていますが、皆さんどれだかわかりますか?

想像的な意見がたくさん

みなさんの話し合いをもとに、文化人類学では「けがれ」をこう考えますという種明かし(←クライマックス!)をした後、ダイエットをしているとき、身体が「汚れた」と感じるのはなぜなのか、いまいちど考えてもらいました。

その結果は、講座の核心に関わりますので省きますが(笑)、みなさんの経験を聞いていてわかったのが、「炭水化物ってそんなに悪者だったの?!」ということ。

クッキー、ごはん、パン、パスタ、そのようなものを食べると「身体が汚くなった」と感じることがあるという方が結構いらっしゃり、現代の「炭水化物嫌悪ブーム」の一端を見た気がいたしました。「炭水化物=太る」、「太る=悪」、このような自動思考っていったいどうしてあるんでしょうね。

la farfaのモデルNaoさんの言葉

最後にいろんな体型の人が世の中にいていいんだと思い、10年続いた拒食と過食の暗闇を抜け出したぽっちゃりモデルのNaoさんの言葉を紹介。実はこのワークショップにも来てくださっていました。

やせすぎの若年女性が国際的に見ても突出して多い日本。Naoさんのような、既存のあたり前を揺るがしてくれる存在、ほんとうに貴重だと思います。

「自分らしさ」とは?

さて次回の「からだのシューレVol.4」は初めての試み、読書会になります!

扱う本は、西加奈子さんの「きりこについて」。

黒猫のラムセス2世とぶすのきりこのお話から、 「自分らしさ」について考えます。開催日は10月22日(土)の午後。場所はいつもと同じ青山ウィメンズプラザです。参加ご希望の方は、「きりこについて」をお読みの上いらしてください。とても読みやすい小説です。

(申し込みページがまだできていないので、でき次第告知しますね!)



2016年7月25日月曜日

安楽と胎盤食

大学院授業の1つ、医療人類学1の最終課題は、医療・介護現場の不思議を人類学的に解き明かしてもらうことです。

最後2回の授業では、それについての発表をしてもらうのですが、明日の発表はこれまでで最強というくらい面白いものが出そろいました。

まずひとつめの発表は、看護師が「安楽」という言葉を多用する理由について。「安楽」なんて言葉、私たち全く使わないけど、看護師さんにはすごくなじみのある言葉。でも当たり前のように使われ過ぎて、それが何かと言われると、発揮としたことが見えてこない。

そんな素朴な疑問から始まったこの調査は、現役看護師さんへのインタビューから、安楽の歴史的、国際的な観点まで入れ込んだかなりの力作です!

そして最後を飾る発表が胎盤食。現役助産師さんが現場で目撃をしたことがきっかけです。妊婦さんが出産後に胎盤を食べるのはなぜなのか?そこにどんな意味があるのかを、こちらも事例と歴史的観点から考察してます。

発表の中には、「なぜあなたは胎盤を食べないのですか」というぶっとび質問まで入れ込まれ、もう文句なしに文化人類学!


明日が楽しみすぎて寝られそうにありません。

 
徳川家宣胞衣塚。ほんとうに埋まってるのかな。

 写真は、根津神社にある徳川家宣胞衣塚。胞衣は退治を包む膜と胎盤のことを指します。胞衣の埋葬は日本では広く行われており、世界的にもこの風習は珍しくないようです。

2016年6月27日月曜日

災害と子ども支援(著:安部芳絵)

あひるの親子がかわいい
 
「子どもは守ってあげなければいけない」
「子どもだから教えてあげなければいけない」

-大人が子どもに対して抱きがちなそんな思い込みが、むしろ子どもが災害を乗り越えて生きていくことを阻害しているのではないか。―

そのようなメッセージがはっきりと書かれているわけではない。書かれているのは、阪神・淡路や東日本大震災などで、子どもを巻き込みながら行われた実践の数々と、そこに参加した人々の声である。

でも、読後にはそのような思いが脳裏をよぎる。

そしてこの本の 主軸は「子ども」にあるが、考えさせれらるのは子どものことばかりではない。

たとえば、「こころ」って何?そういう議論がないままに被災地では「こころのケア」がどんどんと導入された。(東日本大震災における子どもに向けた支援で最も多かったのが「こころのケア」であった。)しかし被災体験を子どもに表出させることが子どもの「こころのケア」に必ずしもつながるのか?むしろ災害後、子どもたちが自然にやり出した「津波ごっこ」や「地震ごっこ」といった、子どもどおしの遊びの中でも、子どもは被災体験を乗り越えてゆくと筆者は指摘する。

震災後、女性にあてがわれる役割は、炊事や介護など、嫁・妻・母を想起させるものが多かった。しかし女性はすなわち嫁・妻・母なのだろうか?支援・復興の主体が「成人・男性・健常者」によって担われることで、「成人・男性・健常者」の視点から支援の枠組みが作られてしまう。支援の主体になった人間の思い込みが、支援からこぼれる人、あるいは本来ある力を発揮できない人を作り出してしまう。

支援とは「保護される人」を作り出す活動ではない。多様な人が自由に意見を表明できる環境を作ること、すなわち「保護される人」を増やすのではなく、「支援の主体になる人」を増やしていく活動なのである。

そう筆者は主張しているように私には思えた。

最後に、私は幸いにもこの本の執筆過程にしばしば立ち会うことができたのだが、その時に筆者がつぶやいた言葉で印象に残っているものがある。

「こころのケア」に資金を導入するより、その資金を子どもが安心して遊べる場所にバスを走らせることに使った方が有効なんじゃないでしょうか?

筆者は医師や心理士による「こころのケア」を否定しているわけではない。ただ、子どもは子ども同士のかかわりの中で、そして環境と主体的にかかわり合う中で自ら成長していくことを誰よりも知っているんだろうと思う。


2016年6月21日火曜日

ハト×医者×ボクシング

ハトといったら平和の象徴。


 医者といったら聴診器




ボクシングトレーナーといったらミット



でもー

ハトはそんなに平和じゃないし(特にお城とか公園のやつ)、聴診器を使わない医者もいるし、ミットはトレーナーの仕事のほんの一部でしかありません。

象徴は便利なものですが、そのものについてのイメージを簡単に作ってしまうため、全体像を隠してしまったり、思い込みを作ってしまうことも多いです。

で、何が言いたいかって、元プロボクサーの福本雄基さん(写真内のさわやかお兄さん)がボクシングフィットネスクラブを東武練馬駅から徒歩5分のところで始めました。



運動不足の人はぜひ足を運んでください。
イメージよりずっと奥深いボクシングの面白さがみえるでしょう。 

「運動なんて買い物袋持つ以外したことありません!」って方から、「ちょっとマジでやってみたい」って方まで幅広く対応してくださるはずです。

場所はミサコジム内ですが、別媒体なのでお間違えのないように!

2016年6月13日月曜日

拒食・過食の経験者が教えてくれた、「からだのシューレ」の意外な効果

8月6日で第3回目を迎える「からだのシューレ」には、「やせたい」という現象に興味を持つ大学生、拒食や過食を経験した人から、そうでない人、はたまた小さいお子さんを持つ女性まで、幅広い人が参加してくださっています。

参加者はすごく多様


告知文にも書いている通り、このワークショップは摂食障害の治し方を考えるものではありません。ですが、拒食や過食の当事者の方から、当初は予測していなかった意外な反応を頂くことができています。
「『治す』が入っていない見方が初めてだったので楽しかった」
「自分を変えましょうというアプローチではないのがいい」
「自分の外側の世界のことが冷静に考えられてすごく面白い」

そもそもこのワークショップは文化人類学がベースになっているため、「拒食・過食=摂食障害=治すべきもの」という見方がありません。なので「どうやったら治るか」とか、「摂食障害は『治る』病気です!」というアプローチには、でんぐり返しをしてもなりえないのが特徴です。

このワークショップでは、矢印が参加者の心のうちではなく、それをとりまく世界、つまり外側に向いているのです。

そこを意識していたわけではないのですが、そんな文化人類学の見方が、思わぬ効果を生んでいることが上で紹介した、みなさんの感想から見えてきました。

そういえば、拙著を読んでくれた過食の経験者の方もこんなことを言っていました。

お医者さんやカウンセラーが書いた本は、どんなに言葉を選んでかかれていても、そこには「あなたのここがよくないから治しましょう」っていう見方が絶対にある。だから何とかしようと思って読めば読むほど、「自分がだめな人間」に思えてくることがよくあった。でも「なぜふつうに食べられないのか」は「あなたのここが悪い」っていう書き方がされていないから、読んでいて心が軽かった。

私は「『拒食・過食』=『病気』、だから治しましょう」という見方が間違いだとは思っていませんし、それには利点もあると思っています。ただ私はこの見方が絶対的に正しい見方とは思っておらず、むしろこういう見方をすることで、見えなくなるものもあると考えています。

「病気と一般的にみなされているものを、病気とみない。そうなるとその現象はどう見えるのか?」

これは文化人類学においては、基本中の基本といえるスタンスなのですが、文化人類学に初めてふれる方には、この視点が新鮮のようです。

身体や食、そしてダイエットや体重、美しさや自分らしさといった、身体や食をとりまく現象についてちょっと違う見方をしてみたい方は、「からだのシューレ Vol.3 」にぜひお気軽にご参加下さい!



2016年6月8日水曜日

数字と身体の不思議な関係-からだのシューレ第2回終了!

数字は私たちの感覚を変えてしまう

カロリーを気にし始めたのはいつですか?
それ以降、どんな変化がありましたか?

6月2日に行われた「からだのシューレ」では、身体や食べ物を数字で見はじめると私たちの生活に何が起こるのかに着目しました。

アイスブレークの後のディスカッションの問いは、カロリーを気にすることでそれまでと変わったこと。参加者の皆さんからは下記のような回答がよせられました。

食べたもののカロリーを記録していくことでみるみるやせていった。そのうち、より低く、より低く、と思うようになり、常に食べ物のカロリーが頭の中をぐるぐる回るようになった。

商品棚のものを片っ端から裏返していくようになった。記載のないものは買わない。大きく赤字で“カロリー5kcal”とか書いてあると欲しくもないのに、買う。カロリーの高いもの(パン)買ったら、負け。

買いものの時とりあえずカロリーをチェックするようになった。
食べたいものが2つある時にカロリーを基準に低いものを選ぶようになった。

カロリー(栄養)表示を見る。カロリーをわざわざ調べる―「〜kcalだから食べるのはやめよう。」「食べすぎだから夕食は抜こう。」

頭で食べるようになった。味わう「食」は遠くなって考える「食」が近くなった。

食べられるものの数(種類)が限られるようになった。 好きなもの、食べたいものだから、というだけでものを食べることが出来にくくなった、

好きかきらいかやなくて、カロリーでものを選ぶようになった

食べものが良いもの/悪いものの2つに分けられるようになった
食と罪悪感がセットになった恐怖
「好きだから食べる」「おいしいから食べる」ではなく、 食べて良いか、悪いかといった価値判断に基づき食べるものが判断されていることがわかります。つまり、それまでのように感覚的に食べることができなくなっているのです。


数字も色もない世界

数字を持たないピダハン

しかし世界にはカロリーはおろか「数字」すらもたない民族もいます。
今回紹介したのはアマゾンに住むピダハンの人々。

ピダハンは、数字どころか、色も、正しいという概念も、さらには創世神話も持たない私たちからするととても不思議な民族です。

ワークショップではピダハンの人々の世界観を契機に、「数字ってどんなものなのだろう」と考えました。

そして導かれた答えは「カロリーは食べ物の中には存在しない」。

詳細は省きますが、参加者の皆さんが「確かに!」とうなずいた瞬間です。

おいしさと物語


おいしいには物語がある。でもカロリー計算を始めると?

実はこのワークショップの導入に「あなたが最近食べたおいしいものは何ですか?」 「 それはどうしておいしかったのでしょう?」という質問をしていました。


そこで出てきたのは、「好きな人と1時間並んで食べた食べログで評判のラーメン」、「バイト後のお腹が空いているときに食べたとろとろ卵のオムライス」、「友人8人でみんなで作って食べた餃子パーティー」など、その人の楽しかった思い出が手に取るようにわかるような物語の数々。
 (中には、「おいしいというより、カロリーゼロで甘くて量があり画期的だと思った」というコンビニの炭酸水についてのお話もありました。)

「おいしさ」には食べ物をとりまく物語があります。でもカロリー計算を始めるとおいしさとは別のところでものを食べるようになってしまう。そのことがカロリー計算を始めてからみなさんに起こった変化からわかります。


カロリー計算を始めると、人と一緒においしさのストーリーを作ることより、食において人に勝つこと、自分に勝つことが重要になってしまいがちです。数字は競争とすこぶる相性がいいため、これは必然的な結果と言えるでしょう。

カロリー計算といういまの社会で推奨される行為は、食べ物と私たちの間で紡ぎだされる物語を容易に消してしまいます。

それは一見取るに足らないことにみえるかもしれません。
でも実際は、その物語こそが私たちが生きる上で欠かせない安心できる、暖かな人のつながりを作ってくれています。

そのことを私たちは忘れがちなのではないでしょうか?


どうやら私は講義中にこのポーズをよくするらしい(恥)


そして、そして第3回目の日程がなんともう決まっております!

次回(8月6日)はは夏休みバージョン30分拡大版で行う「からだのシューレ」。テーマは「ダイエットとけがれ」について。

文化人類学の本丸中の本丸、「けがれ」の概念から、ダイエットを始めると現れることのある「自分の身体が汚い」「食べ物が汚い」という気持ちについて考えてみます。

お申し込みはこちらからどうぞ!

2016年5月30日月曜日

不思議なクニの憲法

「いまの政治の問題は指導者の問題ではなく、国民の問題。」

「この国では、メッセージを持った瞬間に人が離れていく。」

「私たちは憲法を守るための「不断の努力」をしていたのだろうか?」

(日本国憲法第第十二条 :この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。)


 この国の憲法をとりまく問題をアメリカとの関係を歴史的に振り返りながら、様々な論者の声と日本国憲法の条文を同時に示しながら描いた渾身のドキュメンタリー。答えを示すのではなく、考えさせるスタンスも素敵だった。

 公式サイトはこちらから。
 それにしても朝9時30分スタートという、どう考えても軽くいけない時間にしかやっていないのが残念。でも、多くの人にぜひ見て考えて欲しい。

渋谷シネパレスで公開中

そしてその勢いで、「憲法改正」の真実 (集英社新書)を購入。
改憲・護憲という二項対立で憲法についての問題を語ると本質が見えなくなるという警告から、自民党改憲案で「個人」の記載が「人」に書き換えられていることがなぜ恐ろしいのか、そして立憲主義とはそもそも何なのかまで、初めて知ることがとても多く勉強になった。そしてこんなに知らなくて恥ずかしいな、とも思う。

新書はかなり当たり外れがあるけど、この新書は重厚感あり。

読みやすさをとにかく意識してる

次は、全く反対意見の論者の本も読んでみようと思う。


2016年5月16日月曜日

70歳を過ぎても若々しい肌を保つすごい秘訣


あなたも赤ちゃんのようなぷるぷるのお肌に

「どうしてそんなにお肌がきれいなんですか?」と、もうすく50になる女性が73歳の女性に一言。確かにそれを聞かれた女性は、73とは思えないもちもちした、色白の肌の持ち主。

彼女は何と答えたのでしょう?

その答えが、あなたも明日から始められる劇的に簡単な方法であるためシェアしたい。


彼女は40になったときにあることをやめ、それ以来肌がきれいになったのだという。

それでは彼女は何を辞めたのか。

なんとメイクの一切を辞めたのだという。

「日焼け止めと乳液だけにしたわ。冬に乳液は保温にもなっていいのよね。」と彼女。

乳液はコートではありませんっ!!

メイクの不思議

40という、どうやっても若さでは勝負しにくい年になって、メイクをやめるという決断をしたことにとにかく驚きなのであるが、とにもかくにも彼女の言葉は、メイクについて私が不思議に思っていたことを解消してくれた。

 私はかねがね、女性の方がスキンケアにお金も時間も使うのに、同じくらいの男性とたいして肌の美しさが違わないのはなぜだろうと考えていた。

その理由の1つとして考えられるのは―

①メイクの肌への負担がスキンケアの効果を打ち消してしまう。
②男性ホルモンが肌に良い影響を与えている。

もし②がほんとうだった場合、「男性ホルモンで若々しいお肌に!」という注射やサプリメント、あるいは「男性ホルモン配合ファンデーション」などが現れてもおかしくなさそうだが、化粧はそもそも男性から離れた身体になるためにやるものなので、②が検証されることがこれからもなさそうである。

ということで②は却下し、ここでは①を採用しよう。

肌を乱すのは、化粧が原因で、それはいくらスキンケアをしても挽回できないとすると、肌を若々しく保つために、メイクを一切やめるという方法は合理的な選択と言えそう。しかもとんでもないコスパ。なんとゼロ円。


しかし「女は化粧をする生き物」という常識がとことん根付いている社会において、いきなりメイクをやめるということは、「女を捨てた」「女なら化粧くらいしろ」という揶揄にもあいやすい。なのでその点で合理的とは言い難い、ともいえます。

まあ、サンプル数が1なので、一般化はしにくい話ですけど。

2016年4月28日木曜日

あなたの身体を変えさせたいのは誰か?-からだのシューレ第2回 (6月2日 19:00~) 


今の日本では、ブスやデブやハゲは笑いの対象であり、美形でスタイル抜群の男女を賞賛することが「当たり前」とされている。この「当たり前」を前提としてテレビをはじめとしたメディアコンテンツはつくられ、笑いの線引きがされてきた。
(2016年4月15日messy 「女芸人のブスネタが通用するのは国内限定。アリアナ・グランデ「近藤春菜はすごくかわいい」」より)

日本によくある女性芸人の自虐ネタ


近藤春菜さんの「マイケル・ムーア監督やシュレックに似ている」という自虐ネタがアリアナ・グランデに全く通用しなかったという記事。


3月に行った「からだのシューレ」でも、小学生のとき男子にブタと言われたことがやせたいと思うきっかけになったという人がいました。

『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』に登場する結城さんは、小学校の時に「体型からして(生理に)なっているぞ」とクラスメートの前で何度も中傷されたといいます。

作家の川上未映子さんんも加齢に対する他人の指摘があまりにも許容されている現状にモノ申していました。(【第2回】 男性は女性の美醜をいつなんどきジャッジしてもいいと思っていませんかね? それはなぜ?


身体的特徴に対するからかいは「笑ってやり過ごすべき」、「そんなことを受け流せばよい」という世間に確かにある風潮は、このようなお笑いのネタでも増長されるのかもしれません。


「あれもだめ、これもだめ。そんな言葉狩りみたいな風潮はもうごめん」と思う人もいるかもれませんが、人が気にしているかもしれない身体的特徴を「笑い」にしなくても、いくらでも「笑い」を生み出す方法はあるのではないでしょうか?知らないところで誰かを傷つけないと得られない「笑い」はあまりにも低俗ではないでしょうか。


「笑ってやり過ごすべき」という風潮の中で、気にしていない風を装いながらも傷つき、必死に「笑われない」身体になろうとしている人は確実に存在します。


「からだのシューレ」では私たちの身体を取り巻く、身体についての言葉の数々についても考えていきたいと思います。

2016年4月18日月曜日

その人にしかないものー三宮麻由子×イチロー

『考える人』2016年春号(p8-9)より


日本人の声が変わったと思い始めたのは、6,7年前からだろうか。特に女性の発声が違ってきた。喉からまっすぐ声が出ず、声帯の橋に突っかかるような「躓いた声」が多くなった気がするのだ。

実は「躓いた声」からはその人の様子が想像しにくい。痩せ形なのか、お澄ましなのか、私に対して誠実なのか…彼女らが美人だと教えられても、声からは美人感が共有できない。


病気のため4歳で光を失った、三宮麻由子さんのコラムからの一節。

次にイチロー選手と稲葉篤紀さんの対談。



「トレーニングで身体を大きくするのが流行っている」という稲葉さんからの問いかけに対し「全然だめでしょ」、「自分の持って生まれたバランスを崩しちゃダメ」と即答するイチロー選手。


どちらも活躍する分野は全然違うけど、みんなが素敵だと思う「見えるもの」に走って、本質を失ういまの私たちにありがちな姿勢を突いている。

でもそんな世の中だからこそ、自分にしかないものを見つけた人は強いし、揺るがない。










2016年4月11日月曜日

「社会人大学院生の学び」から学ぶ

現在の大学院に赴任して3年目の春。2年目の終わりは、私が初めて入った年に入学した大学院生さんが修了する年でもあった。

こんなに勉強したことはない
人生で一番本を読んだ時間だった

関わらせてもらった院生さんたちが口々にそういっているのを聞いて私は正直とても驚いてしまった。

卒業と入学と
なぜなら早稲田にいたときに学生からこんな言葉を聞いたことはなかったから。

勉強はしなかったけど、いろんな人に会えて楽しかった。
勉強はしなかったけど、サークルでいろんなことを学んだ

勉強は添え物でそれ以外のことが大学生活の中心になることが大学生のふつうだし、「勉強はしなかった!」ということがある種の自慢になるような雰囲気もある中で、院生さんたちのこういう言葉の数々に私はとても感動してしまったし、こういう人たちの学びに関われたことはすごく幸せなことだったんだな、と院生さんたちが修了した時に気が付いた。

うちの大学院は、臨床経験を長く積んできた人が入ってくる大学院。管理職について何人もの医療職をまとめている人も多い。だから授業では私が年下のこともすごく多い。

30代、40代、50代は、10代、20代とは全然違う人生の大変さと深さがあるだろう。

仕事、パートナーとの関係、子育てに家庭のさまざま、親の介護や、職場での人間関係、そしてこれからの自分の人生の行き先。

そういうものを抱えながらも、ものすごい時間とお金をとにかく投入して、「学ぶ」ことを選んだ背景にはいろんな理由があるんだろう。その背景を私はすっかり知っているわけではないけれど、しっかり正装をして晴れ晴れしい顔で卒業写真をとっているみなさんの姿をみて、私はわかっているようでなんにもわかっていなかったんじゃないかとうしろめたい気持ちになった。

3年目の今年は、このことを忘れず授業に向かおうと思う。




2016年4月6日水曜日

【ジンルイカフェ2】ヨガ×ドイツ語~人類学が切る、プロ講師の知


面白すぎるイベント、ジンルイカフェの第2回開催が決定しました!

前回のボクサー×ピアニストに続き、今回は何とヨガとドイツ語の先生の激突。今回も目が離せません。
今回も不思議な接点が見つけられそう

すごく楽しいので来て損はないですよ!

前回の様子はこちらからご覧になれます。


2016年4月5日火曜日

「からだのシューレ」 第1回終了!-あなたはなぜやせたいのですか?

はじめての試み、「からだのシューレ・一億総やせたい社会を見つめるワークショップ」が先日(3/30)に終了しました。

「5名く来てくだされば御の字!」と思っていたのですが、予想に反して10代から60代まで15名の方が集まってくださり、ディスカッションも大いに盛り上がりました。

初回のテーマは「やせたい気持ちとマーケットの関係を考える」。まずはじまりは「やせたい気持ちがいつ、そしてなぜ始まったか」についてのディスカッションから。

そこで出た意見が「やせる」ことの本質をついているものだったので紹介します。

皆さんの意見はホワイトボードに貼り出し

 「あなたはなぜやせたい/やせたかったのですか? 」

  • やせると美しい見た目に…あと着たい服が着られる。モテそう
  • 男子にブタって言われて嫌だったから
  • やせた自分でなければいけないと思っていたから
  • 周りからの悪い評価が怖いから
  • 他人から「キレイ」と言われたかった
  • やせればやせるほど速く走れると思っていたから→その後、それだけでなく ユニフォームがお腹の出る露出度の高いものであり、それも影響したというお話あり。
  • お腹のぽっこりが気になるから=服の着こなしに影響?(人からの指摘)
  • やせるように言われたから
  • 思春期太りをしていじめられてしまったことが忘れられないので…。太っていると良くない気がする
  • やせると「やせたね!」(ちやほや)太ると「太ったね!」(呆れ・見下し) やせてる方が洋服を着こなせた(と思っている)
  • 美しくなりたかった
  • 自分の肉がきもち悪い。醜く不快に感じる

はじめて「やせたい」と思った時期は、小学校中学年~高校生の間。もっとも多かったのは小学校高学年から中学生でした。そして意見をみるとわかるように、「やせる」ことが明確に他人からの評価と結びついていることがわかります。

やせることは「自信」とか、「健康」とか、「なりたい自分」とか、自分自身と結び付けて語られることが表向きは多いです。ですが その裏側では「他人からよくみられたい」、「他人よりも素敵な身体になりたい」という比較や競争の視点が入っていて、そのような価値観を小学校~中学校という多感な時期に、しらずしらずのうちに身につけているということがわかります。

参加者の方の中には小学1年の娘さんがいらっしゃる方もおり、その方のお話しによると、1年生の頃からやせることがうらやましい、 やせたい!と思っている女の子が結構いるとか。生まれて10年にも満たないころから自分の身体がよくないと思う気持ちっていったい何なのでしょうか?

やせたい気持ちと身体というマーケット

ディスカッションでアイスブレークをした後は、身体についての文化人類学のレクチャー。「なぜやせていることが美しさと結び付けられるのか」、「なぜやせは加速するのか」について、「身体というマーケット」をキーワードに、経済の仕組みと結び付けながらお話をしました。

ここでいう「身体というマーケット」とは、あなたの身体は十分ではない、あなたの身体はもっと素敵になれるし、そしたらあなたの人生はもっと輝く」という市場からの呼び声のことです。

名前は近寄り難いけど、すごく身近な学問が文化人類学!  

 レクチャーの後は、「『身体というマーケット』に取り込まれていると思う瞬間は?」、「身体というマーケットから降りることは可能か?」というお題をテーマにディスカッション。

「(そういう瞬間が)ありすぎて逆に具体的に浮かびません」という皆がうなずく意見から、「健康食品(オーガニックのもの)とかジムに行くことがカッコ良い。それで、スタバのカップを持っていると素晴らしい」といった会場が笑いに包まれる意見まで、さまざまな意見が飛び交い、身体というマーケットに私たちは日常的にとり囲まれていること、それから降りることの難しさが共有されました。

終わりに書いていただいたアンケートでは、「時間があっという間に過ぎてしまいました!」、「普段段恥ずかしくてとても言えないような悩みを皆さんが持っていることがわかり、それを共感だけでなく学問的に知ることができた」、「文化人類学をもっと学んでみたい!」、「次回も参加したい!」という意見など、参加したことに意義を見出してくださった方がほとんどで、嬉しくなった私たちは2回目も企画することになった次第です(笑)


第2回目のテーマは、「数値と身体の関係」について。数値で身体を評価し始めるといったい私たちの日常には何が起こるのでしょうか?文化人類学の観点を交えながら考えてみます。日程・場所はまだ未定なので、決まり次第告知します!



2016年3月28日月曜日

野の医者は笑う―心の治療とは何か(東畑開人)

臨床心理士の著者が、いわゆる怪しげな治療をするセラピストに次々と会う中で「心の治療とは何か?」という本質的な問いに向き合う学術的エッセイ

フィールドワークの真骨頂
 漆黒の眼で患者を見つめ、「ミルミルイッテンシューチュー」と唱えることでありとあらゆる病気を治すという謎の産婦人科医グシケン先生に始まり、沖縄のトンデモセラピスト(?)が次から次へと紹介される。

ただこの本の面白さは著者がそんなセラピストを鼻で笑うのではなく、そんな「トンデモ」セラピーでもよくなる人がいることを真剣に捉え、その事実を自らの専門領域である臨床心理に照らし返しながら、「心の治療とは何なのか?」を真剣に問い続けること。

いっけん意味のわからない他者の生から自らの生を問い直す著者の姿勢こそ、文化人類学的なフィールドワークの醍醐味で、それが著者のときどきの感情を交えながら、せきららにでも面白く記される。

フィールドワーク初心者の学生のテキストとしても使えるのではないかと思ったし、意味不明な日本人のあり方からアメリカ人のあり方を問い直した、ルース・ベネディクトの菊と刀 (講談社学術文庫)も想起させた。


研究者にしかわからないような難解な学術書にもできたはずなのに、それを誰にでも読めるようなエッセイ調に書き下し、自らも笑いのネタとして登場させてしまうところに、著者の謙虚で暖かな人柄が感じられる。

「こんなセラピストがいるの!?」という表層的に楽しむだけの読みもできるし、「治すとは何か?」「『正当』な医学とは何か?」といった本質的な問いに迫る読み方もできる良著。

いっけんよくわからないいかがわしいものと、いっけんよくわかって正しく見えるものは実はつながっている。

春休みの課題図書としてふさわしい一冊でした。


2016年3月7日月曜日

ぽっちゃりの私がスリムになった日

「からだのシューレ 一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」開催に当たって


You are slim.

22歳の時にオレゴンに留学し、驚いたことはたくさんあったのですが、そのうちのひとつがこれでした。

親戚や周りの大人から「ぽっちゃりしているね」と言われて育った私は、たぶん中学くらいから、ご多分に漏れずいつもやせたい女子でした。吐いたり、下剤乱用をしたり、ずっと食べなかったりということはなかったけれど、その時の私の気持ちは、拒食や過食で苦しんでいる人に通じる部分があったと思います。

そのときは今みたいに「どうしてやせたいと思うのか?」なんて考えることもせず、 「やせること=いいこと・素敵なこと」という自動思考ができ上がっていました。熱いヤカンに手をぶつけたら、瞬間的に手を引くくらいの、反射といってもよいくらいに。


そして留学―

「やせている」なんて言葉は、「背が高いね」くらいに関係ない言葉だった私に(155cm)、「スリムだね」なんて言葉をかける人が現れたのです。しかも一人じゃなくて複数。

私はその言葉に、太陽が西から上るくらいの驚きを覚えました。
でも同時に、ぽっちゃりの人間が住む場所を変えるだけでスリムになることの気持ち悪さも感じました。

 「いったい私がこれまで育ってきた社会はなんだったんだろう?」
 「やせてるってなんなんだろう?」

当然のことながら私の心にはこんな疑問が湧いてきます。

  


そんなふわっとした疑問に言葉を与えてくれたが文化人類学でした。

人にとって身体とは何なのか?
人にとって外見とはなんなのか?

女性と美しさはなぜこんなにも結びつくのか?

そして、やせるとはなんなのか?

文化人類学が見せてくれた「身体」は、今までの私の専攻であった運動生理学では決して見せることのできない身体のありようでした。

もしもう少し早く文化人類学に出会っていたら、「社会がよしとする形と私の心がこうありたいと願う形がどこか決定的にずれている」という言葉すら思いつかなかった20代のあの頃の私は、もっと自分のことが好きだったんじゃないか。自分が思う「正しさ」を人間すべてにとっての正しさとして、100%の善意で押し付けてくる「社会人」達の言葉ももっとうまくやりすごせたんじゃないか。そう思います。

今月30日に「からだのシューレ~一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」というイベントを開催することになりました。文化人類学の視点からやせたい気持ちとやせを礼賛する社会の仕組みを見つめるワークショップです。

ですが、こういうイベントを開催することにためらいがあったことも事実で、またそのためらいは今も消えません。

こうやったら生きるのが楽になるとか、こうやったらもっと幸せとか、こういう風に考えるのが正しいとか、そういうことの答えはひとりひとりにしかないはずで、そんなこと私にはとても言えないと思っています。でも一方でこのワークショップは明らかにそういう要素をはらんでおり、その点でこのワークショップは矛盾しているのです。

そういう矛盾があるにもかかわらず開催に踏み切ったのは、これまで文化人類学を授業を持ち、そして本を発刊する中で、文化人類学の世界の見方に目を開かれたと言ってくれる人が、何気なく過ごしてきた日常が前よりも楽しくなったといってくれる人が、少なくはない人数で存在し、そういう人たちが私の活動を応援してくれたからです。

今回のワークショップ「からだのシューレ」というタイトルは、一緒に主催する林さんが考えてくれました。

シューレ」とはドイツ語で学校、古代ギリシャ語で「精神を自由に使う」という意味があるそうです。特に後者の意味は、文化人類学という学問が目指すところとも合致するので、考えてくださった林さんにもとても感謝しています。

小学生からやせたいと思う社会。
そんな子どもたちに向けてダイエット特集が組まれる社会。
思春期で身体が成長するその時に、自分はもっとやせないといけないと思わせる社会

そして、それをふつうのことと思う社会。

私はなんか変だと思う。

文化人類学というツールを使うことで、参加してくださる皆さんが、自分と自分をとりかこむ社会の間にスキマを作ることができ、そのスキマに、自分の身体を心地よく感じるための風が吹けばと願っています。

興味ある方はお気軽にご参加下さい。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「からだのシューレ 一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」

日本では若年女性のやせすぎが10年以上前から問題視される一方、BMI 18.5以下のやせすぎ女性がメディアにはあふれています。「あなたの身体はもっとよくなる」「あなたはもっときれいになれる」というメッセージを浴びせ 続ける現代社会。若い女性たちは自分のそのままの身体を受け入れることが難しい社会の中で生きています。やせることと幸せはどうしてこうも結びつくので しょうか?文化人類学の視点からやせたい気持ちとやせを礼賛する社会の仕組みを見つめます。あなたのやせたい気持ちが少しでもラクになりますように。


○開催日時
2016年3月30日(水)19:00〜20:50 

○会場
東京ウィメンズプラザ(2階・第二会議室A)
東京都渋谷区神宮前5-53-67 
JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線 渋谷駅 宮益坂口から徒歩12分
東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線 表参道駅 B2出口から徒歩7分
都バス(渋88系統) 渋谷駅から2つ目(4分)青山学院前バス停から徒歩2分
http://www1.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/

○司会進行
磯野真穂(文化人類学者/国際医療福祉大学員講師)
【HP】http://www.anthropology.sakura.ne.jp/
『なぜふつうに食べられないのか~拒食と過食の文化人類学~』
春秋社 http://amzn.to/1KYRJqJ

林利香(EAT119 摂食障害の予防と啓発/企画・編集・執筆)
【HP】http://www.eat119.com

○対象
体重や体型にとらわれることがあると感じる方
やせたい気持ちと現代社会との関係について関心がある方

○参加費
1000円
(資料代を含む 当日お支払いただきます・恐れ入りますが、つり銭のないようにご用意ください)

○注意事項
本ワークショップは文化人類学という学問の視点から身体との関係性を探るのが目的です。
痩身や摂食障害の治療を目的とする心理療法やセルフヘルプグループとは異なりますので
あらかじめご注意ください。

○お申込み&お問い合わせ
https://ssl.kokucheese.com/event/entry/379756/