数字は私たちの感覚を変えてしまう |
カロリーを気にし始めたのはいつですか?
それ以降、どんな変化がありましたか?
6月2日に行われた「からだのシューレ」では、身体や食べ物を数字で見はじめると私たちの生活に何が起こるのかに着目しました。
アイスブレークの後のディスカッションの問いは、カロリーを気にすることでそれまでと変わったこと。参加者の皆さんからは下記のような回答がよせられました。
「好きだから食べる」「おいしいから食べる」ではなく、 食べて良いか、悪いかといった価値判断に基づき食べるものが判断されていることがわかります。つまり、それまでのように感覚的に食べることができなくなっているのです。
食べたもののカロリーを記録していくことでみるみるやせていった。そのうち、より低く、より低く、と思うようになり、常に食べ物のカロリーが頭の中をぐるぐる回るようになった。
商品棚のものを片っ端から裏返していくようになった。記載のないものは買わない。大きく赤字で“カロリー5kcal”とか書いてあると欲しくもないのに、買う。カロリーの高いもの(パン)買ったら、負け。
買いものの時とりあえずカロリーをチェックするようになった。
食べたいものが2つある時にカロリーを基準に低いものを選ぶようになった。
カロリー(栄養)表示を見る。カロリーをわざわざ調べる―「〜kcalだから食べるのはやめよう。」「食べすぎだから夕食は抜こう。」
頭で食べるようになった。味わう「食」は遠くなって考える「食」が近くなった。
食べられるものの数(種類)が限られるようになった。 好きなもの、食べたいものだから、というだけでものを食べることが出来にくくなった、
好きかきらいかやなくて、カロリーでものを選ぶようになった
食べものが良いもの/悪いものの2つに分けられるようになった
食と罪悪感がセットになった恐怖
数字も色もない世界
数字を持たないピダハン |
しかし世界にはカロリーはおろか「数字」すらもたない民族もいます。
今回紹介したのはアマゾンに住むピダハンの人々。
ピダハンは、数字どころか、色も、正しいという概念も、さらには創世神話も持たない私たちからするととても不思議な民族です。
ワークショップではピダハンの人々の世界観を契機に、「数字ってどんなものなのだろう」と考えました。
そして導かれた答えは「カロリーは食べ物の中には存在しない」。
詳細は省きますが、参加者の皆さんが「確かに!」とうなずいた瞬間です。
おいしさと物語
おいしいには物語がある。でもカロリー計算を始めると? |
実はこのワークショップの導入に「あなたが最近食べたおいしいものは何ですか?」 「 それはどうしておいしかったのでしょう?」という質問をしていました。
そこで出てきたのは、「好きな人と1時間並んで食べた食べログで評判のラーメン」、「バイト後のお腹が空いているときに食べたとろとろ卵のオムライス」、「友人8人でみんなで作って食べた餃子パーティー」など、その人の楽しかった思い出が手に取るようにわかるような物語の数々。
(中には、「おいしいというより、カロリーゼロで甘くて量があり画期的だと思った」というコンビニの炭酸水についてのお話もありました。)
「おいしさ」には食べ物をとりまく物語があります。でもカロリー計算を始めるとおいしさとは別のところでものを食べるようになってしまう。そのことがカロリー計算を始めてからみなさんに起こった変化からわかります。
カロリー計算を始めると、人と一緒においしさのストーリーを作ることより、食において人に勝つこと、自分に勝つことが重要になってしまいがちです。数字は競争とすこぶる相性がいいため、これは必然的な結果と言えるでしょう。
カロリー計算といういまの社会で推奨される行為は、食べ物と私たちの間で紡ぎだされる物語を容易に消してしまいます。
それは一見取るに足らないことにみえるかもしれません。
でも実際は、その物語こそが私たちが生きる上で欠かせない安心できる、暖かな人のつながりを作ってくれています。
そのことを私たちは忘れがちなのではないでしょうか?
どうやら私は講義中にこのポーズをよくするらしい(恥)
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そして、そして第3回目の日程がなんともう決まっております!
次回(8月6日)はは夏休みバージョン30分拡大版で行う「からだのシューレ」。テーマは「ダイエットとけがれ」について。
文化人類学の本丸中の本丸、「けがれ」の概念から、ダイエットを始めると現れることのある「自分の身体が汚い」「食べ物が汚い」という気持ちについて考えてみます。
お申し込みはこちらからどうぞ!