2017年6月14日水曜日

オトナも使える「見たこと作文」

子どもの文章力がいつのまにか上達する本があると聞いたので読んでみた。

その名も、『親子で作る見たこと作文』(LCA国際学園 学園長 山口紀生 著)


正直手に取るのに多少の違和感があったのは否めない。小中高と一貫して田舎の公立出身の私は、関東の私立と聞くだけで、なんだか私とは違う世界に住んでいる人たちのような感じがしてしまうからだ。

でも読んでみたら、全然違った。



この本の目的は、子どもの文章力を上げるための親の手伝い方なんだけど、これは先生と生徒、上司と部下などなど「教える」ことが生じるありとあらゆる場面で使えると思う。

「見たこと作文」はそんなに難しいものではなく、文字通り見たことを文字にしていく。

「楽しかった」と書くのではなく、その時に何を見て、それがどんなだったのかを書く。


たとえば―

ゴールデンウィーク中にしおひがりに行きました。いっぱい貝がとれました。楽しかったです。

これを「見たこと作文」を使うと―


私はゴールデンウィーク中にしおひがりに行きました。行くときに周りにたくさん木が見えました。着いたところには草がいっぱい生えていました。…砂をくまでほると、消しゴムくらいの小さな貝がでてきました。いっぱい貝がとれました。

見たことをきちんと書くだけでもう全然違う。

私たちは成長の過程で言葉を覚え、たくさんのことをひとまとめにしてしまう癖をつけてしまう。「楽しかった」の中には、たくさんの出来事、見たこと、感じたことがあったはずなのに「楽しかった」という箱の中に全部を押し込めておんなじ色に塗ってしまう。

さらにやっかいなことに自分の言葉が、ほめられるような、評価されるような、時には無難に物事が進むような言葉を選ぶ。

楽しくもなかったのに、楽しかったと言ってみたり。

なぜか?

それは周りの大人がそういう方向に誘導するから。
こういう場合はこういう言葉を選びなさいと教えるから。

その結果、教えられる側は、自分が見たことではく、「正解」になる言葉を選ぶようになってしまう。ほんとうは見えていたものを見ていないといってしまう。そのうちにほんとうに見えなくなる。

(最近あるものをないと言っているエライ人たちがいるみたいだけど、その人たちはもはやほんとうに見えなくなっているのかもしれない。)

ひるがえって「見たこと作文」には正解がない。だって子ども一人一人が見たこと、感じたことをそのまま言葉にするだけだから。見たことや感じたとこに正解も、不正解もあるはずがない。

 私が素敵だなと思ったのは次の見たこと作文に対する山口さんのコメント

はじめて魚にさわってみた。ぬるぬるしていた。魚の目もさわってみた。ナイフの先で魚の目をおすと白目になった。はなすとまたもとの黒と黄色の目に戻った。しっぽはざらざらとしていた。ちょっとかたかった。

 これは魚を釣って、食べたときの「見たこと作文」。

これに対して山口さんはこう言う。

ナイフの先で魚の目を押すなんて大人の目から残酷に見えるかもしれない。 でもそれは大人の考え。その考えを押し付けて「そんなこと書くのは良くない。ちょっとかわいそうだったと書いたら?」、などといった瞬間に、子どもは自分の目で「見る」ことを、「感じる」ことを止めてしまう。大人の目から見た正しい世界の理解の仕方じゃなくて、子どもが見たこと、感じたことを大人もそのまま一緒に共有する。これが見たこと作文の流儀。(←これそのままの引用じゃなくて私の理解も入ってます)


上の立場にいる者が世界の見方、表現の仕方を強制する。これって親子に限らず、そこらじゅうで起こっていると思う。

何か問題が起こったとき、なぜ間違ったことをしたのではなく、「あなたはそこで何を見たのか、感じていたのか」と問えるかどうか。まず相手が見ていた世界を捉える努力をしているかどうか?

本著は、子どもの文章力を上げるための本なので「見たことパレット」といったツールや、形容詞の導入の仕方といったテクニックも盛り込まれているが、何よりも素敵なのはその底辺にある考え方だと思う。

そしてこの底辺にある考え方って、文化人類学者がやるフィールドワークと全く同じなんだよね。授業でも使えるんじゃないだろうか、とまで思ったくらい。

子どもの文章力を上げるといった目的だけでなく、風通しのよい人間関係を作り上げるための考え方として手にとっても十分に使える本だと思う。

おススメです。