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2018年2月19日月曜日

変化した日本人の「うんち観」(「からだのシューレ9」開催報告②-湯澤規子編)

からだのシューレ第9回目は、筑波大学の湯澤さん、リクシルの山上さんをお迎えし、トイレとうんちについて深く考えました。下は私が生まれて初めて作ったPVです。みんな、見て(笑)



うんこ漢字ドリルが爆発的な売り上げを上げている日本。
ですが、いまの私たちにとってうんちはうんちでしかなく、不要なものとして処理をする対象でしかありません。


ですがこの変化はこの1世紀くらいの間に起こった考え方の変化。日本人にとってうんちは長きにわたって、生活を支える大事な肥料だったのです。

「なぜ日本人はうんちを肥料とは思わなくなってしまったのか?」
第1部の山上さんからの問いを引き継いで湯澤さんのレクチャーが始まりました。



まず便所と糞の語源の説明から。

湯澤さん、うんちTシャツでノリノリのトークです。


便所には「くつろぐ場所」、糞には「ともに畑を耕す」という意味があるそうです。

便所は何とか想像がつきますが、「糞」は相手をけなすために使われたりしるので、そこに「ともに何かをする」という意味が込められているとはなかなか想像がつきません

慶長3年、江戸時代の資料

大正時代の記録

上の2枚の写真は、江戸時代と大証時代の資料から。大正時代に入っても、ナスや大根、沢庵とうんちが交換されていたのは驚きです!

また記録を紐解くと、お祝いの日の後の糞尿、身分の高い人の糞尿はより高い価値がつけられていたのだとか。確かにお祝いの後はいいものを食べていそうですし、身分の高い人のうんちの方が栄養価がありそうです。

殿様のうんちには多くの人が殺到したりしていたのでしょうか…。

そしてさらにさらに驚きなのが、うんちの利用は昭和に入っても行われていたということ。下の2枚の写真を見てください。
うんちをいかに科学的に有効利用するか。昭和初期の資料です。

昭和20年代もまだうんちは肥料として使われていた!

人口の増加により、うんちを肥料として使うべきか、廃棄するべきかという議論はすでに起こっていたということですが、肥料としての価値は認められ続けていたんですね。



湯澤さんによると、糞尿が廃棄物とされる動きが加速度的に進んだのは、第2次世界大戦後。

その背景には、GHQによる指導あるいは苦情(?)(人のうんちで育てた野菜なんて汚くて食べられない!)、添加物が食べ物に入ることによる糞尿の安全性への懸念、人口増加による糞尿の増加など複数の要因があるそうです。

いずれにしても私たちの「うんち観」はこの1世紀にも満たない間に作られた一時的な「当たり前」であることがわかります。

山上さん達の活動により、うんちはうんちでしかなかったケニアの人々の「うんち観」が変わったように、私たち日本人のうんち観ももしかすると近いうちに変わるかもしれません。

この後、山上さんはそのまま空港へ。湯澤さんはうんちTシャツのまま懇親会に出席されました(笑)


さて2か月に1辺のペースで9回にわたり開催してきた「からだのシューレ」。来月3月17日の第10回目を持って、しばらく充電期間に入ります。

最終回のテーマは「糖質制限」。いまやダイエットの常識となった糖質制限を通じ、食べることの当たり前を考えてみましょう。

お申し込みはこちらからです!

2017年11月3日金曜日

【開催報告】からだのシューレVol.8「かわいいの作り方」


「かわいい」って一体何からできているんでしょう?
かわいい人が一瞬にして、かわいくなくなったり、かわいいくない人が、一瞬にしてかわいくなることはあるんでしょうか?

からだのシューレ第8回目は、普段何気なく使うけれど、よくよく考えるとわからない「かわいい」をテーマに開催しました。

今回のトリは地面にいます。

《前半:KJ法をやってみよう!》


まずは文化人類学者の川喜田さんが開発したKJ法と呼ばれる方法で、ブレインストーミングを行います。3グループに分かれ、「かわいい」と直感的に感じるものをどんどん付箋に書いてもらい、それを種類ごとにグループ分けをしてもらいました。


手前の方は―

くまもん、石原さとみ、顔が小さい、目が大きい、まゆ毛が長い。

奥の方は―

ハート、丸、チーリュップと書いてらっしゃいますね。

さて、これらに何か共通点はあるでしょうか?


お次は分類です。グループで出した言葉を、意味が似通ったもの同士でまとめて、それらに表札をつけてもらいます。さてどんな表札がでてくるでしょうか。



こちらのチームは、「小さい」「丸」という表札ができてますね。「嫌なものを乗り越えるためのツール」(嫌なことでもそれを「かわいい」と思うことで乗り越えられる)という面白い表札も出てきています。




表札をつけ終わったら、今出されたキーワードと、表札を見ながら、「かわいい」とは何かについて考えます。

こちらのチームは、いやし、心の端っこをさわられる、胸のときめき、といった言葉と関連するのが「かわいい」のではないかという回答がでています。


一方、こちらのチームは、<おでん>から<笑顔>までのキーワードを「有村かすみ的な」の一言でまとめています!

様々な言葉が出ましたが、「かわいい」とは一体どんな状態なのでしょうか?
KJ法の後は、全体に戻りいまいちどかわいいについて考えます。

《後半:かわいい⇔かわいくない》




後半のお題の1つこちら。この猫ちゃんから「かわいさ」をはぎとるにはどうしたらいいでしょうか?

自由に考えてもらいます。


答えがこちら、なんだかおどろおどろしい感じになってきました。

キバを出して目を吊り上げ、病気で、くさくて、目やにが出て、威嚇をして、ネズミをシャット捕まえて、唸っている猫

確かにかわいくなさそうです…



他に考えてもらったお題の1つはこちら。有名なエマ・ワトソンさんの国連でのスピーチです。切れ味鋭く、非常に堂々としてワトソンさんのスピーチですが、このワトソンさんをできるかぎり「かわいく」するにはどうしたらいいでしょうか?


原稿を目の前で両手で掲げて読む。
声を高くして、もっと舌足らずに話す。
前髪を作って、ふわふわワンピースを着る―

など、ずいぶんと子どもらしくなるような言葉が出てきますね。


さて前半でやった「丸」、「小さい」、「癒し」とからめながら、「かわいい」は何かを考えてみましょう。

私たちはいったいどのようなものに「かわいさ」を覚えるのでしょうか。



まずわかるのは、「かわいさ」は、猫とか、子どもどか、存在そのものに内在されているのわけではない、ということです。

ふるまい方や、見栄え、態度が変われば、一瞬にして、かわいいものは、かわいくなくなり、ひるがえって、かわいくないものは、かわいくなってしまいます。

次に、出てきたキーワードからわかること。それはー

「かわいい」には、親しみやすいというポジティブな要素がある一方で、自分に対して危害を加えてこない、自分より下であり、不完全であるといった意味合いもあるということでしょう。

「かわいくなりたい」という気持ちは、女性であれば一度は持つことのある気持だと思います。

ですが、それが行き過ぎると、大人であるのにわざと子どもっぽくふるまってみたり、できることをできないように見せたり、といった行為につながることもわかります。

逆に「かわいげがない」と相手が自分に言ってくる時は、「自分に対して批判的なことを言うな」、「自分に従っていろ」、といった意味合いも含むことがわかるでしょう。

日本は特に「かわいくあること」が重要視される文化です。それは不完全なものにもよさを見出すという意味でよいことでもありますが、一方で、堂々と意見を言ったり、自立した大人としてふるまったりすることを否定的な目で捉えるというマイナスな方向に進んでしまう場合もあります。

「かわいい」に過度に迎合することなく、うまい付き合い方をしていきたいものですね。

座談会の後のアンケートタイム。いつもありがとうございます!

<次回のお知らせ>

さて、次回の「からだのシューレ Vol.9」は来年の1月29日となります。

次回は筑波大学の湯澤さんとLIXILの山上さんをお迎えし、なんと「うんちとトイレ」について思う存分語っていただきます。湯澤さんは前回大好評の講義をしてくださった歴史学者、山上さんはケニアでトイレを作られている方です。みなさまのご来場心よりお待ちしております♪(お申し込みはこちらから)

からだのシューレ vol.9 うんちとトイレが世界を変える!? 




日時:2018年01月27日(18:15〜21:00 ※18:00受付開始)
場所:渋谷区文化総合センター大和田/区民学習センター2F 学習室2


●概要

生きていく上で欠かせない排泄。そしてそれを受け止めるトイレ。

「うんち」と「トイレ」から眺めると、どんな世界が見えてくるのでしょうか?
今回は歴史学者の湯澤規子さんと株式会社リクシルの山上遊さんを迎えてのクロストーク企画です。

十分な水がなく、衛生的なトイレを使えない人が、世界には24億人いると言われています。 ケニアで「循環型無水トイレ」の開発・普及に奔走する山上さん、100年前の日本の経験を研究する湯澤さんと、現代と過去、ケニアと日本へクロストリップしてみましょう。


●タイムテーブル
18:00 受付開始
18:15 世界共通のうんち事情と世界多様のトイレ事情
18:25 うんちとトイレの話(現代編:ケニア)
18:55 うんちとトイレの話(歴史編:日本、主に愛知県)
19:25 からだと社会とジェンダーの話(クロストーク)
19:45 うんちとトイレが世界を変える!?(ワークショップ)
20:15 質疑応答
20:30 閉会

2017年9月25日月曜日

かわいい、うんち、物語



2016年3月より7回にわたり続けてきた『からだのシューレ』は、2017年3月の第10回目を持っていったん終了とし、充電期間に入ることに致しました。

文化人類学者として、食べ物や身体がどんどん数値化されていく社会、あなたの身体は十分ではないというメッセージを発し続ける社会のあり方に危機感を感じ、林さんに協力をお願いして始めたワークショップでした。

第1回目は「誰か来てくれるのだろうか」と正直不安でしたが、蓋を開けてみれば、7回を通じてすでに150名のさまざまな背景の方が足を運んでくださるイベントとなりました。ここまで続けた来られたのも、来てくださった皆様お一人おひとりのおかげです。心よりお礼申し上げます。

残り3回ですが、次のような計画を立てております。お忙しいと思いますが、お時間のある方はぜひいらしてください。皆様との再会を林さんとともに心よりお待ち申し上げます。

今後の予定は以下のようになります。


<「からだのシューレ」今後の予定>

◉9月30日(土)Vol.8 「かわいいの作り方」 (13:30ー16:30 [180分]@ウィメンズプラザ  /1500円 【参加者:どなたでも】)

3時間座談会付きの付きの拡大バージョンです。テーマは「かわいい」について。 

ちょっと変わった切り口から、ふだん何気なく口にする「かわいい」の輪郭を探ります。日本の若い女性にやせすぎが多いこととも関連させながら、「かわいい」とは何かについて考えてゆきましょう。

また今回は3時間座談会付きの拡大バージョン!その中では、大学の講義で使うと必ず盛り上がる手法であり、また研究やビジネスでも使われている、KJ法という手法も導入します。(座談会は飲み物付きです。)

いつもより入場料が五百円お高くなっていますが、その分楽しんでいただけるよう工夫を凝らしています。来週お時間のある方ぜひお越しください!

★お申込みはこちらから↓


1月27日(土)Vol.9  「ちょっと不思議なうんちの話」(仮題)(90分@表参道・渋谷近辺 /1000円【参加者:どなたでも】)
※時間と場所は決まり次第お伝えします。

大人気だった筑波大学准教授の湯澤規子さんと、ケニアでトイレを作る活動をしていらっしゃる、LIXIL(株式会社リクシル総合研究所)の山上遊さんをお迎えしてのレクチャーです。

現在絶賛企画中ですが、こちらも盛り上がること間違いなしのテーマです。

3月下旬  Vol.10最終回 『あなたの食と物語ー糖質制限ブームを通じて考える』(仮題)(90分@表参道・渋谷近辺 /1000円 【参加者:ダイエットや食生活に関心のある女性】)
※時間と場所は決まり次第お伝えします。

最終回は磯野が担当します。テーマは、食べ物と物語。食べ物というとカロリーや栄養素で捉えてしまいがちですが、食べ物には物語としてとらえるというもう1つの捉え方があります。この数年大ブームの糖質制限の構造を批判的に解き明かしながら、物語としての食のあり方について考えてみます。

体重やカロリーが気になって仕方がない人、ダイエットに少し疲れ
たなと思う人、そんなみなさんの気持ちが少し楽になるワークショップになればと考えています。

2017年4月10日月曜日

からだのシューレ Vol.6 「なぜお母さんが原因に?~摂食障害の歴史学」開催報告

2016年3月から始まった「からだのシューレ」は今回でなんと6回目!
毎回来てくれる方もおり、すでに長寿番組を狙っています。

めざせ徹子の部屋。

看板作りに気合が入っています!
完成。満足な出来です。

さて、2017年初の「からだのシューレ」では、はじめて摂食障害のことを扱いました。
テーマは、日本の摂食障害の理解では、なぜ母親が原因とされるのか。



摂食障害の原因に母親の子育てをみる理論は20世紀の後半に欧米でもありましたが、この理論は徐々に廃れていきます。

しかし一方日本では、未だこの理論が残り続けており、摂食障害の話をすると、「それって母親がいけないんだよね」といった言葉が一般の人からもでることも。

よく考えてみてください。
あることの原因において、母親の子育て「だけ」が関わっている事象などあるでしょうか?

私たちが成長する過程で関わる人は母親だけではありません。父親、祖父母、きょうだい、友達、教員など多様な人たちとの関わり合いの中で私たちは成長します。

その中でなぜ母親だけがことさらにピックアップされるのか、これはよく考えると不思議な現象です。実際、私が調査を行ったシンガポールでは、母親に原因を求める発想が見られませんでした。

この違いはなぜなのでしょうか。今回はこの問題を、私の専門である文化人類学の手法を使って考えました。



まずは拒食・過食の原因の変遷を中世ヨーロッパまで遡っておさらいしました。真実を語る権威が宗教から科学に移るにしたがって、摂食障害の原因論も変わっていきます。というより、そもそも中世の時代は、「病気」とは考えられていませんでした。食べていなくても生きていられる、神様の奇跡とみなされていたのです。

ふつうですと、「それは昔の遅れた考え」という見方になりがちなのですが、そうは考えないのが文化人類学です。

司会の方、やけに肩が上がってますが苦しいのでしょうか?


話しは20世紀の後半に進み、とうとう日本の摂食障害の原因を考えるには欠かせない「母原病」のお話し。「母原病」は内科医の久徳重森さんが1970年代に発表した理論で、子どもの家庭内暴力、アトピー性皮膚炎、登校拒否、ぜんそく、とありとあらゆる病気の原因は、母親の不適切な子育てにあるという理論です。いま聞けば、びっくりぽんの理論なのですが、ここで考えたいのは、これが間違っているか、正しいかではなく、なぜ当時の日本でこの理論が広く受け入れられ、「母原病」はなぜベストセラーとまでになったのか、です。

やけににこにこしていますが母源病のファンではありません。


それを踏まえた上で、母親に原因を求める見方が全く見られない、シンガポールに話は移ります。日本とシンガポールでみられる大きな差。いったいここには何があるのでしょうか?

病気を個人の中ではなく、個人の外に広がる、社会や文化、政治や経済と結び付けてみる見方が重要になります。
淡路島と同じ大きさのシンガポール。拡大しすぎました。
参加者の方からはこのような感想を頂きました。

“心理学などでは、必ず家族関係を持ち出される。特に母親の責任は重い。どうしてなのかと学者にきいたら「そういうものだ」と言われたことがある。ずっと腑に落ちなかったが今日明確になった。”
*ちなみにこのような回答は、心理学の一般的な見解ではないと言えるでしょう。
文化人類学は問題の形を見てみようとする学問です。 問題を解決する手法を提供する学問ではないので、物足りないと感じる人もいるかもしれませんが、私はそこが文化人類学のよさではないかと思っています。生きるということに答えがない以上、自分が問題とどう向き合うかは、究極的には本人にしか見いだせないはずだからです。

今回は、最後に物語論の話しもしました。少しさわっただけだったのですが、アンケートを見るともう少し突っ込んでほしかったという意見が多いので、別の回でとりあげるかもしれません。

ご来場ありがとうございました♪

2016年10月25日火曜日

私たちはいつ、人の目線で自分を見るようになるんだろう


ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさをきりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある鏡だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「自己満足」、という言葉に置き換えられた(129)

今回の「からだのシューレ」はいつもよりサイズを半分に縮小し、1部と2部に分けての読書会。とりあげたのは西加奈子さんの「きりこについて」です。




参加者は10代から50代までの女性と男性。

生きた年月もやっていることも大きく違うみなさんでしたが、皆さんどこかのタイミングで、他者から自分がどう見えているのかを気にするようになり、時にそれにとらわれてしまう経験をお持ちであることが印象的でした。

うちも自分のこと、ものすごくかわいいって思っていたやんか!(192-193)

学校でぶすだとののしられ、いじめに遭いとうとう登校拒否になるきり子が、こう気づくシーンがあります。

ここについて大学生の参加者からこんな発言がありました。

「小さいころの自分を思い出すと、私もそうだったんじゃないかと思います。親が無条件に愛してくれる。かわいいってどういうものかもわからないし、世間のかわいいもわからない。いまは雑誌に載っているモデルとかに影響されているけど、そういうのをいつから気にしだしんだろうか。どうして無条件に満足できていた自分では足りなくて、他からも求めてしまうのはいつごろだったのだろう?」

幼いころは、他人がどう見ているかなんて全然わからず、自分がどうしたいかしかわからないですよね。ところが私たちは次第に周りが自分をどう見ているのか、世間の尺度にあっているのか、年相応のことができているのか、デブじゃないか、ブスじゃないか、お金があるか、そんなことを気にしだしてがんじがらめになり、気付いたら自分が何をしたいのかわからなくなる―

こういうことを経験した方は多いのではないでしょうか?

私が4年にわたりインタビューをさせてもらった拒食・過食を経験した方たちも、他人の目というのにがっちがちに縛られていた局面があったような気がします。

でもこれはうまく食べられなくなった人たちに限らず、私たちみなが陥ることですし、世間にはふつうとか、常識とか、そういう言葉で他人の目に縛り付けようとするメッセージにあふれていることも事実です。

今回取り上げた「きりこについて」は、自分らしくすることの大事さを一方で強調しながらも、あるべき形からはみ出る人々を排除する社会との中で、どう生きたらいいのかを考えさせてくれる小説でした。

そして次回の「からだのシューレ」は、プラスサイズモデルNaoさんの講演会。今回に引き続き「自分らしさ」ってなんだろう、「外見ってなんだろう」ということを考えさせてくれる内容になること間違いなしです。

「やせなきゃ」と思うあなたの気持ちはどこからやってくるのでしょう?

参加制限はございませんのでどなたもお気軽にご参加下さい!







2016年4月28日木曜日

あなたの身体を変えさせたいのは誰か?-からだのシューレ第2回 (6月2日 19:00~) 


今の日本では、ブスやデブやハゲは笑いの対象であり、美形でスタイル抜群の男女を賞賛することが「当たり前」とされている。この「当たり前」を前提としてテレビをはじめとしたメディアコンテンツはつくられ、笑いの線引きがされてきた。
(2016年4月15日messy 「女芸人のブスネタが通用するのは国内限定。アリアナ・グランデ「近藤春菜はすごくかわいい」」より)

日本によくある女性芸人の自虐ネタ


近藤春菜さんの「マイケル・ムーア監督やシュレックに似ている」という自虐ネタがアリアナ・グランデに全く通用しなかったという記事。


3月に行った「からだのシューレ」でも、小学生のとき男子にブタと言われたことがやせたいと思うきっかけになったという人がいました。

『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』に登場する結城さんは、小学校の時に「体型からして(生理に)なっているぞ」とクラスメートの前で何度も中傷されたといいます。

作家の川上未映子さんんも加齢に対する他人の指摘があまりにも許容されている現状にモノ申していました。(【第2回】 男性は女性の美醜をいつなんどきジャッジしてもいいと思っていませんかね? それはなぜ?


身体的特徴に対するからかいは「笑ってやり過ごすべき」、「そんなことを受け流せばよい」という世間に確かにある風潮は、このようなお笑いのネタでも増長されるのかもしれません。


「あれもだめ、これもだめ。そんな言葉狩りみたいな風潮はもうごめん」と思う人もいるかもれませんが、人が気にしているかもしれない身体的特徴を「笑い」にしなくても、いくらでも「笑い」を生み出す方法はあるのではないでしょうか?知らないところで誰かを傷つけないと得られない「笑い」はあまりにも低俗ではないでしょうか。


「笑ってやり過ごすべき」という風潮の中で、気にしていない風を装いながらも傷つき、必死に「笑われない」身体になろうとしている人は確実に存在します。


「からだのシューレ」では私たちの身体を取り巻く、身体についての言葉の数々についても考えていきたいと思います。

2016年4月6日水曜日

【ジンルイカフェ2】ヨガ×ドイツ語~人類学が切る、プロ講師の知


面白すぎるイベント、ジンルイカフェの第2回開催が決定しました!

前回のボクサー×ピアニストに続き、今回は何とヨガとドイツ語の先生の激突。今回も目が離せません。
今回も不思議な接点が見つけられそう

すごく楽しいので来て損はないですよ!

前回の様子はこちらからご覧になれます。


2016年4月5日火曜日

「からだのシューレ」 第1回終了!-あなたはなぜやせたいのですか?

はじめての試み、「からだのシューレ・一億総やせたい社会を見つめるワークショップ」が先日(3/30)に終了しました。

「5名く来てくだされば御の字!」と思っていたのですが、予想に反して10代から60代まで15名の方が集まってくださり、ディスカッションも大いに盛り上がりました。

初回のテーマは「やせたい気持ちとマーケットの関係を考える」。まずはじまりは「やせたい気持ちがいつ、そしてなぜ始まったか」についてのディスカッションから。

そこで出た意見が「やせる」ことの本質をついているものだったので紹介します。

皆さんの意見はホワイトボードに貼り出し

 「あなたはなぜやせたい/やせたかったのですか? 」

  • やせると美しい見た目に…あと着たい服が着られる。モテそう
  • 男子にブタって言われて嫌だったから
  • やせた自分でなければいけないと思っていたから
  • 周りからの悪い評価が怖いから
  • 他人から「キレイ」と言われたかった
  • やせればやせるほど速く走れると思っていたから→その後、それだけでなく ユニフォームがお腹の出る露出度の高いものであり、それも影響したというお話あり。
  • お腹のぽっこりが気になるから=服の着こなしに影響?(人からの指摘)
  • やせるように言われたから
  • 思春期太りをしていじめられてしまったことが忘れられないので…。太っていると良くない気がする
  • やせると「やせたね!」(ちやほや)太ると「太ったね!」(呆れ・見下し) やせてる方が洋服を着こなせた(と思っている)
  • 美しくなりたかった
  • 自分の肉がきもち悪い。醜く不快に感じる

はじめて「やせたい」と思った時期は、小学校中学年~高校生の間。もっとも多かったのは小学校高学年から中学生でした。そして意見をみるとわかるように、「やせる」ことが明確に他人からの評価と結びついていることがわかります。

やせることは「自信」とか、「健康」とか、「なりたい自分」とか、自分自身と結び付けて語られることが表向きは多いです。ですが その裏側では「他人からよくみられたい」、「他人よりも素敵な身体になりたい」という比較や競争の視点が入っていて、そのような価値観を小学校~中学校という多感な時期に、しらずしらずのうちに身につけているということがわかります。

参加者の方の中には小学1年の娘さんがいらっしゃる方もおり、その方のお話しによると、1年生の頃からやせることがうらやましい、 やせたい!と思っている女の子が結構いるとか。生まれて10年にも満たないころから自分の身体がよくないと思う気持ちっていったい何なのでしょうか?

やせたい気持ちと身体というマーケット

ディスカッションでアイスブレークをした後は、身体についての文化人類学のレクチャー。「なぜやせていることが美しさと結び付けられるのか」、「なぜやせは加速するのか」について、「身体というマーケット」をキーワードに、経済の仕組みと結び付けながらお話をしました。

ここでいう「身体というマーケット」とは、あなたの身体は十分ではない、あなたの身体はもっと素敵になれるし、そしたらあなたの人生はもっと輝く」という市場からの呼び声のことです。

名前は近寄り難いけど、すごく身近な学問が文化人類学!  

 レクチャーの後は、「『身体というマーケット』に取り込まれていると思う瞬間は?」、「身体というマーケットから降りることは可能か?」というお題をテーマにディスカッション。

「(そういう瞬間が)ありすぎて逆に具体的に浮かびません」という皆がうなずく意見から、「健康食品(オーガニックのもの)とかジムに行くことがカッコ良い。それで、スタバのカップを持っていると素晴らしい」といった会場が笑いに包まれる意見まで、さまざまな意見が飛び交い、身体というマーケットに私たちは日常的にとり囲まれていること、それから降りることの難しさが共有されました。

終わりに書いていただいたアンケートでは、「時間があっという間に過ぎてしまいました!」、「普段段恥ずかしくてとても言えないような悩みを皆さんが持っていることがわかり、それを共感だけでなく学問的に知ることができた」、「文化人類学をもっと学んでみたい!」、「次回も参加したい!」という意見など、参加したことに意義を見出してくださった方がほとんどで、嬉しくなった私たちは2回目も企画することになった次第です(笑)


第2回目のテーマは、「数値と身体の関係」について。数値で身体を評価し始めるといったい私たちの日常には何が起こるのでしょうか?文化人類学の観点を交えながら考えてみます。日程・場所はまだ未定なので、決まり次第告知します!



2016年3月7日月曜日

ぽっちゃりの私がスリムになった日

「からだのシューレ 一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」開催に当たって


You are slim.

22歳の時にオレゴンに留学し、驚いたことはたくさんあったのですが、そのうちのひとつがこれでした。

親戚や周りの大人から「ぽっちゃりしているね」と言われて育った私は、たぶん中学くらいから、ご多分に漏れずいつもやせたい女子でした。吐いたり、下剤乱用をしたり、ずっと食べなかったりということはなかったけれど、その時の私の気持ちは、拒食や過食で苦しんでいる人に通じる部分があったと思います。

そのときは今みたいに「どうしてやせたいと思うのか?」なんて考えることもせず、 「やせること=いいこと・素敵なこと」という自動思考ができ上がっていました。熱いヤカンに手をぶつけたら、瞬間的に手を引くくらいの、反射といってもよいくらいに。


そして留学―

「やせている」なんて言葉は、「背が高いね」くらいに関係ない言葉だった私に(155cm)、「スリムだね」なんて言葉をかける人が現れたのです。しかも一人じゃなくて複数。

私はその言葉に、太陽が西から上るくらいの驚きを覚えました。
でも同時に、ぽっちゃりの人間が住む場所を変えるだけでスリムになることの気持ち悪さも感じました。

 「いったい私がこれまで育ってきた社会はなんだったんだろう?」
 「やせてるってなんなんだろう?」

当然のことながら私の心にはこんな疑問が湧いてきます。

  


そんなふわっとした疑問に言葉を与えてくれたが文化人類学でした。

人にとって身体とは何なのか?
人にとって外見とはなんなのか?

女性と美しさはなぜこんなにも結びつくのか?

そして、やせるとはなんなのか?

文化人類学が見せてくれた「身体」は、今までの私の専攻であった運動生理学では決して見せることのできない身体のありようでした。

もしもう少し早く文化人類学に出会っていたら、「社会がよしとする形と私の心がこうありたいと願う形がどこか決定的にずれている」という言葉すら思いつかなかった20代のあの頃の私は、もっと自分のことが好きだったんじゃないか。自分が思う「正しさ」を人間すべてにとっての正しさとして、100%の善意で押し付けてくる「社会人」達の言葉ももっとうまくやりすごせたんじゃないか。そう思います。

今月30日に「からだのシューレ~一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」というイベントを開催することになりました。文化人類学の視点からやせたい気持ちとやせを礼賛する社会の仕組みを見つめるワークショップです。

ですが、こういうイベントを開催することにためらいがあったことも事実で、またそのためらいは今も消えません。

こうやったら生きるのが楽になるとか、こうやったらもっと幸せとか、こういう風に考えるのが正しいとか、そういうことの答えはひとりひとりにしかないはずで、そんなこと私にはとても言えないと思っています。でも一方でこのワークショップは明らかにそういう要素をはらんでおり、その点でこのワークショップは矛盾しているのです。

そういう矛盾があるにもかかわらず開催に踏み切ったのは、これまで文化人類学を授業を持ち、そして本を発刊する中で、文化人類学の世界の見方に目を開かれたと言ってくれる人が、何気なく過ごしてきた日常が前よりも楽しくなったといってくれる人が、少なくはない人数で存在し、そういう人たちが私の活動を応援してくれたからです。

今回のワークショップ「からだのシューレ」というタイトルは、一緒に主催する林さんが考えてくれました。

シューレ」とはドイツ語で学校、古代ギリシャ語で「精神を自由に使う」という意味があるそうです。特に後者の意味は、文化人類学という学問が目指すところとも合致するので、考えてくださった林さんにもとても感謝しています。

小学生からやせたいと思う社会。
そんな子どもたちに向けてダイエット特集が組まれる社会。
思春期で身体が成長するその時に、自分はもっとやせないといけないと思わせる社会

そして、それをふつうのことと思う社会。

私はなんか変だと思う。

文化人類学というツールを使うことで、参加してくださる皆さんが、自分と自分をとりかこむ社会の間にスキマを作ることができ、そのスキマに、自分の身体を心地よく感じるための風が吹けばと願っています。

興味ある方はお気軽にご参加下さい。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「からだのシューレ 一億総やせたい社会を見つめる文化人類学ワークショップ」

日本では若年女性のやせすぎが10年以上前から問題視される一方、BMI 18.5以下のやせすぎ女性がメディアにはあふれています。「あなたの身体はもっとよくなる」「あなたはもっときれいになれる」というメッセージを浴びせ 続ける現代社会。若い女性たちは自分のそのままの身体を受け入れることが難しい社会の中で生きています。やせることと幸せはどうしてこうも結びつくので しょうか?文化人類学の視点からやせたい気持ちとやせを礼賛する社会の仕組みを見つめます。あなたのやせたい気持ちが少しでもラクになりますように。


○開催日時
2016年3月30日(水)19:00〜20:50 

○会場
東京ウィメンズプラザ(2階・第二会議室A)
東京都渋谷区神宮前5-53-67 
JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線 渋谷駅 宮益坂口から徒歩12分
東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線 表参道駅 B2出口から徒歩7分
都バス(渋88系統) 渋谷駅から2つ目(4分)青山学院前バス停から徒歩2分
http://www1.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/

○司会進行
磯野真穂(文化人類学者/国際医療福祉大学員講師)
【HP】http://www.anthropology.sakura.ne.jp/
『なぜふつうに食べられないのか~拒食と過食の文化人類学~』
春秋社 http://amzn.to/1KYRJqJ

林利香(EAT119 摂食障害の予防と啓発/企画・編集・執筆)
【HP】http://www.eat119.com

○対象
体重や体型にとらわれることがあると感じる方
やせたい気持ちと現代社会との関係について関心がある方

○参加費
1000円
(資料代を含む 当日お支払いただきます・恐れ入りますが、つり銭のないようにご用意ください)

○注意事項
本ワークショップは文化人類学という学問の視点から身体との関係性を探るのが目的です。
痩身や摂食障害の治療を目的とする心理療法やセルフヘルプグループとは異なりますので
あらかじめご注意ください。

○お申込み&お問い合わせ
https://ssl.kokucheese.com/event/entry/379756/





2016年2月25日木曜日

【ジンルイカフェ】 拳闘家×音楽家―人類学が切る、プロの身体

来週水曜日は、ジンルイカフェの日。
ゲストはピアニストの佐藤美和さんとボクシングトレーナーの加藤健太さん。

お二人とも実践と指導者の両方の経験があるプロのお二人です。プロフェッショナルは自分の身体をどのように動かし、どのように教え、そしてどのように観ているのか。
身体をテーマに思う存分語っていただきます。

対談は、<実践>、<指導>、<観る>の3部門で構成。

まったく違う領域で活躍されるお二人の対談からどんな化学反応が引き起こされるのでしょうか?
お二人にはあえてマニアックなことを語ってほしいとお願いしてあります。

タイムテーブルはこちら。(流れに応じて調整しますので、この通りに進まなくともご了承ください!)

19:00-19:15 人類学から見る身体の不思議
19:15-19:25 ゲスト紹介
19:25-19:45 パート1 <実践>
19:45-20:00 パート2 <教える>
<休憩>
20:10-20:30 パート3 <観る>
20:30-20:50 フロアディスカッション
20:50-21:00 プロが教える音楽と格闘技の楽しみ方/終わりの言葉



「身体」をキーワードに研究を続ける3人の文化人類学者のたわいない会話から実現した企画です。どうぞご期待ください!





なお会場である、テンプル大学ジャパンキャンパス麻布校舎への最寄駅からの地図は下記をご覧ください。(「日本生命麻布ビル」の1階から6階がテンプル大学麻布校舎です。お間違えないように。)



2016年2月7日日曜日

教えるは引き算

教えるは引き算。

はじめての教壇に早稲田で立ってから5年。教える場も変わり、これまでいろいろ試行錯誤を重ねてきたけれど、これだけは、変わらず残りそうな真実なだと思う。



「引き算」というのは、一番大事なことを伝えるために、いらないものをそぎ落としていくこと。

「足し算」というのは、一番大事なことにたくさんのことを接ぎ木していくこと。テーブル一杯のごちそうみたいな感じ。

「足し算」の方がお腹いっぱいになる。だけど、学生に残るのは、お腹いっぱいになったという事実だけ。何を食べたかはぼやっとしていてよく覚えていない。

「引き算」はお腹いっぱいにはならないけれど、何を食べたかの記憶ははっきりと残る。文化人類学という学問の余韻が残り続ける。

あれも大事、これも大事と、なんでもかんでも言葉にしてしまうことの怖さは、お互いの満足感だけ高くなってしまうことだと思う。教える側は、たくさん教えたという満足感。教えてもらった側は、たくさん教えてもらったという満足感。

でも学問はそんな満足感のためにあるわけじゃない。何を伝えられたか、何が心に消えないものとして残ったかが一番大事。

教員なり立てのころの私を振り返ると、とにかく詰め込む授業をしてしまっていたと思う。たぶん学生も、先生が熱くて、勢いがあって、なんかたくさん学んだという印象しかないんじゃないか。

足し算ではなく、引き算で行う授業を意識し始めてからの方が、私のキャラとか、勉強「量」とかの余計な印象ではなく、学生のそれぞれに文化人類学という学問の余韻を残せているのではないかと思う。

一方、教員としての経験を積む中で怖いなと思うのは、無駄にトーク力がついてしまったこと。準備不足でいまひとつ伝えるべきことが定まっていなくても、なんかそれなりにつくろえてしまう。そういう時の私は、絶対に「足し算」。相手が知らなそうなことを、あれもこれもと話すことで、立派なことを聞いたような気分にさせてしまう。キャリアを積むことの弊害だと思う。そういう授業をしてしまった日は一日気分が悪い。

 加えて、大学教員という肩書の怖いところは、その肩書だけで、相手を納得させる力があるということ。たいしたことを言っていなくても、「○○大学の教授」が話すだけで、それは立派なお言葉に変身してしまうことが多々ある。

私はまだ講師なので、そこまでのご威光はないけれど、もし私のポジションが准教授とか、教授とか、上がっていくことがあるのならば、「入れ物の威光」と「自分そのもの」をいっしょくたにしてエラくなった気になることだけは、絶対にしてはいけないと思う。

そうなったら、私の教え方は間違いなく引き算から、足し算になってしまうはずだろう。

足し算で教え始めたら、それは怠慢とおごり。

どれだけ経験を積んだとしても、私の肩書がどう変わったとしても、絶対に忘れないでいたい。

2015年7月24日金曜日

人文・社会科学の規模縮小―責められるべきは政府だけ?

政府からの通達で、国公立大学における人文・社会科学領域の規模縮小に拍車がかかりそうだ。

 当然のことながら、全国の人文・社会科学者から「人文・社会科学をつぶすとはなんたることか」との怒りの声が上がっている。

私の専門の文化人類学も人文・社会科学に当たるため、この話は他人ごとではない。「人文・社会科学を縮小させるなんて、なんてあさはかな」、と思う。


ただ一方で近年のこの動きは自業自得なんじゃ?と思うところも多い。

たとえば、 私が大学で受けた人文・社会科学の授業は、1つをのぞいて、おしなべて恐ろしくつまらなかった。

先生が自分の専門領域のことをつらつらと話している。それが日常生活にどう結びついて、どう生かせるのかはさっぱりわからない。成績もAが来たけど、なんでAなのかは不明。

そんな私に、人文・社会科学教員はこういうかもしれない。


「それは自分で考えなさい」
「つまらなかったのは、あなたが面白さを見つける努力をしなかったから」


でもそんなことを言われても、あのころの私にはこれっぽっちも響かないだろう。

だってつまらないんだから。人のせいにしないでください、とでも言ってしまいそう。


私が人文・社会科学の面白さを知ったのはアメリカに留学してからで、日本の大学では残念ながらなかった。

人文・社会科学者は、人文・社会科学が面白くてたまらない、これがなかったら世の中荒んでしまうと心から思う学生を世に輩出してきたのだろうか?いまの私には人文・社会科学にかかわる大学教員の多くがそういう仕事をしてきたとはどうしても思えない。

自分の学問領域の中に閉じこもり、仲間内でしかわからない言葉を話し続け、わからない人は「教養がない」と足蹴にし、授業を適当にこなしてきた結果が、いまの状態なんじゃないだろうか。私は自然科学出身だから、人文・社会科学の言葉の特殊さ、わかりにくさはよくわかる。逆に、それゆえの面白さも、有用性も。

 
規模縮小に怒る気持ちもわかるけど、「そうさせてしまったのは結局自分たちなんじゃないか」、そういう視点がいまの議論には欠けている気がする。


2015年6月3日水曜日

日本文化を語るのは誰か?

日本語は話せるけど、書いたり、読んだりは苦手。

おそらく多くの人は、そういう人が日本文化を研究することは難しいと思うでしょう。

ところが、文化人類学においては、日本語は話せるけど、書いたり読んだりすることは不得手という研究者が、日本について大手をふるって語っている現状が存在します。

それがグローバル化がすさまじい日本についての文化人類学的研究。

残念ながら英語で書かれた日本についての文化人類学的研究の中には、日本語で書かれた文献はほとんど読まず、英語で日本について書かれた先行研究ばかりを読んで書かれたものがたくさんあります。
 

逆に日本語で書かれた文献をふんだんに使った、英語で書かれた日本についての文化人類学的研究が、先行研究不十分として審査で落とされるなんて話も。

文化人類学の基本は相手の文化を尊重することですが、相手国の言葉で書かれた研究成果が見事にないがしろにされるというへんてこな事態が文化人類学では起こっています。

おそらくこのあたりは、日本語の文献が読めないと話にならない、歴史や文学では違うでしょう。日本人顔負けの語学力をもった研究者が多いことはよく知られています。

日本語が十分に読めない・書けない文化人類学者が日本とはなんたるかについて、堂々と語ってしまえる現状。この現状に一矢を報いることができるのは日本語を十分に読めて、書ける文化人類学者しかいないはずなのですが、実際は一矢を報いるどころかやられてしまっているのが現状といったところかなと思います。

第49回文化人類学会のラウンドテーブルは間違いなく拡大し続ける英語帝国にどのように立ち向かうかという話でした。まあ一言で言うと、英語が母語の研究者の2倍の努力をして、日本語と英語の両方で成果を発表せよということなのでしょう。自戒を込めて。