2015年12月28日月曜日

社会人大学院のおもしろさと複雑な医療現場

私が今働いている国際医療福祉大学大学院は、さまざまな医療のプロフェッショナルが集まるところが魅力。 そして私の担当する授業は共通科目がほとんどなので、学科を超えていろんな人たちが集まってくるからまた面白い。

年内最後の医療人類学はまさにその魅力が現れた。

講義内容は、フーコーハッキングギデンズラトゥールなどこれまで辿ってきた王道のみなさまの仕事を辿りつつ、一見確実に見える知識の裏側にあるものを考えていく作業。


医療現場で戸惑ったり、あいまいさを感じる部分について聞いたところ、患者の家族の立場から現代の医療に対する違和感について話す人がいたと思えば、その意見に対して、医師の方針がいかにして決まっていくかを医療のバックヤードから話す人がいる。するとそれにとどまらず、「実はそれに関連するの製品を病院に売っていて…」と、企業側の事情を話し出す人がいる。

これまでの講義で、医療人類学的な思考の前提を共有しているから、議論がうまく絡み合って、大変刺激的な90分だった。

さまざまな現役プロフェッショナルが集まる大学院ならではの授業の醍醐味。

医療って確実そうに見えるけど、実はものすごくあいまいな部分をはらんでいて、その中でみながそれぞれの立場から試行錯誤するんだけど、見ているメガネが違うから、すれ違っちゃったりする。

すれ違いが起こると、いばりんぼうの医師とか看護師とか、モンスターペイシェントとか、個人の性格に問題が帰されがちなんだけど、それが原因で問題が起こっていることってほんとはごく少数なんだろうな。


2015年12月22日火曜日

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』



大学教員を始めてから、「難しい学生とは距離を取りなさい」「専門家に任せなさい」というアドバイスを、経験のある先輩方から何度ももらった。それはそれで納得がいくところもありつつ、同時に強い違和感も抱いていた。

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』
稲垣諭著/学芸みらい社

「距離をとること」、「専門家に任せること」、それが教員のあるべき姿なのだろうか。私は、「難しくない学生」だけと向き合うべきなのだろうか。

授業が増えれば増えるほど、教員にとっての学生は、どうしてもone of themになってしまう。だから諸先輩方の言っていることもわからなくはなかったし、自分に「難しい学生」と向き合うだけの「スキル」と呼ばれるものがある自信もなかった。

(その「スキル」とやらが何かはよくわからないけれど)

『大丈夫、死ぬには及ばない』の読了後に一種のすがすがしさを覚えたのは、この本が、私が抱いていた違和感を肯定してくれたからなような気もする。


若者に日々ふれあう仕事をする人たちに、ぜひ目を通してほしい。


共同通信書評

2015年12月17日木曜日

手帳と継続の秘訣

スケジュールを何で管理するかでここ数年迷い続けた私がたどり着いた手帳がNOLTY 1392。Google calender、スマホのアプリ、はたまた手作りなど、どれをやっても飽きてしまい、「私は根気のないだめ人間?」と、軽く自己肯定感を下げたりしていたのだが、この手帳は3年目に突入した。私の中ではこれは結構なキセキである。

続いた理由は意外なとろこにあり、手帳の右下の切り取り線。
一週間終わるごとにこれを切り取っていくので、すぐに今週のページが開けて合理的。

でも続いた理由はそこじゃなくて、この切り取り線が与えるやりきった感。1週間終わるたびに切り取ることで、なんかたいそうなことをした気がする。(実際はたいそうなことは何もない。)もはやラジオ体操のハンコ状態である。(「そんなにあなたはハンコが欲しいの?」なんて間違っても聞いてはならないのである。)

一つのことを続ける人が苦手な人にはちょっと勧めてみたい手帳であることは間違いない。


NOLTY1392

2015年12月11日金曜日

猫のすごさ


後ろ足も毛がふさふさしていて、ただそれだけで、しかも意図せずに、癒しをもたらせるところ。

2015年12月10日木曜日

ストレスの正体

私たちの日常会話に欠かせないものになった「ストレス」。
心身の不調の原因を語る際に欠かせないものになった「ストレス」。

しかし「ストレス」は、その存在に対して科学的な証明があったり、その定義に関して専門家の「合意」があるわけではない。

「ストレス」という概念が一般的になったのは、第2次大戦以降であり、それが広がった原因は、その概念がさまざまな領域―動物と人間、近代化と人間、病気と人間…―をつなげる力があったからである。

ストレスに関する科学的な調査はたくさん出されているが、大元になっている概念が科学的でないことはよくあるお話し。

-参考文献:"Stress, Shock, and Adaptation in the Twentieth Century"

2015年11月10日火曜日

会話の死

スマートフォンが生まれる前、私たちは目線を合わせ、言葉を交わす以外に選択がなかった。
しかしその時代はすでに過ぎさった。

今私たちは、スマホの画面に目を落とすことで、言葉を交わすよりもずっと重要なことをしている「ふり」をすることができる。

これはもはや「会話の死」に他ならない。それは生きる上での苦痛をさらに増やしているだけのように私には感じられる。

Before mobile phones were invented, people would have had no choice but to interact. However, that is no longer necessary as we can all now “pretend” we are doing something “important” on our devices rather than think of something to say. This is killing conversation. I believe it’s increasing social pain. (http://www.boredpanda.com/the-death-of-conversation/

2015年11月9日月曜日

葉っぱのほんとうの色






「秋に色づいた葉っぱが、ほんとうの葉っぱの色なんだって」

誰が考えたのか知らないけど、そう考えたことは今までなかった。
生まれたときにはみんな同じ感じなのに、日の当たり方や、育った場所によって、色づくタイミングも、色づき方も少しずつ違ってくる。

そう考えると人間も同じだなって思う。

みんながこの考えを持っていたら、もみじマークへのクレームなんてなかったんだろうな。



2015年9月16日水曜日

怒り

とりわけ、SEALDsの女性陣への攻撃は、もはや犯罪レベル、サイバーテロとも言うべき酷さだ。本名や交遊関係がさらされ、あることないこと書き立てられ、グロ画像や猥褻画像を送りつけられる。下劣で性的な馬事雑言をSNSのコメント欄やツイッターで書きつける・・・etc。

志葉 玲さんのFacebookから


2014年に起こった香港の海傘運動でも、参加女性の「性」が反対派の攻撃対象となったそうです。

なぜこういうときに女性の性は必ずと言ってよいほど、攻撃の対象になるのだろう。


顔も名前も出して声を上げる女性たちの性を、攻撃対象にする匿名の弱虫たち。

怒りに胸がうずく。




強引なプリングルス

おいしいんだけど、とにかく捨てにくい。スチールの底の胴体への執着といったらハンパなく、ゴミをまとめる私の心を打ち砕く。

フィートをセンチに換算しないで輸出をするアメリカの強引さがよく出てる。

ちなみにオレゴンにいた時に、向こう100年間何を捨てても大丈夫なゴミ捨て場が掘ってあるって聞いたことがある。都市伝説か?

2015年9月10日木曜日

コルセット、纏足、そしていま。

美しければ健康である、というのはとんでもない誤解で、女性の美しさというのは往々にして健康を犠牲にするものである。

時代をさかのぼってみると、欧米で女性の美しさを象徴するものであったコルセット。腰回りをめちゃくちゃ締め付けるシロモノである。ひどい場合には、骨盤が割れるなんてこともあったらしい。

中国の纏足。小さい足の女性がよちよち歩きをする姿が、セックスアピールになったらしい。成長途中の足を大きくならないようにがんじがらめにが布で巻いてしまうのであるから、これはいわずもがなで健康に悪い。

こんなの例外的なものでしょ?、と思うかもしれないが、いまだって女性らしさを形作るいろいろなものは身体に悪い。

例えば、ハイヒール。後部の着地面が異様に小さく、靴底は薄い。外反母趾や、靴擦れ、さらにはふくらはぎの異様な疲れなど、身体によい要素は一つもない。

さらにはメイク。この前友人が、メイクをしたまま寝るのは、「ぞうきんを顔にかけたまま寝るのと同じらしい」と言っていた。その真偽はともかく、顔にいろんな化学物質をぬって、皮膚呼吸を妨げるのであるから、ふつうに考えて身体によいはずがない。

寒い時期のスカート。いくらブーツと厚手のストッキングで足を覆ったところで、ズボンにはかなわない。女性は身体を冷やさないようにっていうにね。

「健康的な女性がいい」って言うけれど、ノーメイク・スニーカー・ズボンの女性と、メイク・ヒール・スカートの女性。どっちがデートに誘われるか、どっちがかわいいと認知されるか考えてみてほしい。

ただ女性の美しさに関する最近の議論で注目したいのは、ほんとうに健康と美しさがセットで語られるようになったということ。

でもそれは、これまでの女性がおしゃれをして健康を崩してきたことによる反省からではなく、20世紀後半の私たちの社会がとんでもない健康オタクになったから。そして資本主義社会と相まって、健康は自助努力で達成できるもの、健康はお金で買えるもの、という考えが定着しているから。

健康はお金でなんか買えない!、と反論した人もいるかもしれないけど、星の数ほどあるサプリメントに、トクホのような健康食品、安全な食品、様々なエクササイズなど、私たちは健康になるためにお金をつかうのを惜しまない。

女性の美しさは常に時代の写し鏡となるけれど、昨今の「美しい=健康」ブームもちゃんと時代を反映しているのである。

ではそのような女性はほんとうに健康なのか?
美しいと社会に認知されること自体が、本人の心身の健康に少なからず影響を与えるはずなので、その身体自体がそもそも健康とは言い難いだろう。事実、若い女性のやせすぎは2000年からの日本の課題で、それ自体も「やせる=美しい」という価値を反映したものなのだから。

2015年7月24日金曜日

人文・社会科学の規模縮小―責められるべきは政府だけ?

政府からの通達で、国公立大学における人文・社会科学領域の規模縮小に拍車がかかりそうだ。

 当然のことながら、全国の人文・社会科学者から「人文・社会科学をつぶすとはなんたることか」との怒りの声が上がっている。

私の専門の文化人類学も人文・社会科学に当たるため、この話は他人ごとではない。「人文・社会科学を縮小させるなんて、なんてあさはかな」、と思う。


ただ一方で近年のこの動きは自業自得なんじゃ?と思うところも多い。

たとえば、 私が大学で受けた人文・社会科学の授業は、1つをのぞいて、おしなべて恐ろしくつまらなかった。

先生が自分の専門領域のことをつらつらと話している。それが日常生活にどう結びついて、どう生かせるのかはさっぱりわからない。成績もAが来たけど、なんでAなのかは不明。

そんな私に、人文・社会科学教員はこういうかもしれない。


「それは自分で考えなさい」
「つまらなかったのは、あなたが面白さを見つける努力をしなかったから」


でもそんなことを言われても、あのころの私にはこれっぽっちも響かないだろう。

だってつまらないんだから。人のせいにしないでください、とでも言ってしまいそう。


私が人文・社会科学の面白さを知ったのはアメリカに留学してからで、日本の大学では残念ながらなかった。

人文・社会科学者は、人文・社会科学が面白くてたまらない、これがなかったら世の中荒んでしまうと心から思う学生を世に輩出してきたのだろうか?いまの私には人文・社会科学にかかわる大学教員の多くがそういう仕事をしてきたとはどうしても思えない。

自分の学問領域の中に閉じこもり、仲間内でしかわからない言葉を話し続け、わからない人は「教養がない」と足蹴にし、授業を適当にこなしてきた結果が、いまの状態なんじゃないだろうか。私は自然科学出身だから、人文・社会科学の言葉の特殊さ、わかりにくさはよくわかる。逆に、それゆえの面白さも、有用性も。

 
規模縮小に怒る気持ちもわかるけど、「そうさせてしまったのは結局自分たちなんじゃないか」、そういう視点がいまの議論には欠けている気がする。


2015年6月30日火曜日

「女子刑務所」の診察室から見えること

 
昨今の政治・経済的状況が強要する非正規雇用へのシフトや、新自由主義が私たちに課する不安定な身分は、まさに人間を短期的な利害だけによって扱うものである。しっかりと足場を構えた上で、周囲の人々と長期的な関係を結んでいくことが、いま土台から切り崩されている。この意味で、女子刑務所にあらわれている病理はこの社会全体を覆いつつある。そのことを忘れてはならない。 
松本卓也 「「女子刑務所」の診察室から見えること」 『女たちの21世紀』 2014, 8月

女子刑務所の非常勤医師としてはたらく筆者の観察では、女子刑務所に入る多くの女性が、長期的な人間関係を作れず、いまここでの利益を最大限にすればよいというような短期決戦での人間関係を作ってしまいがちであるという。

筆者にレバ、女性の満期釈放者の3割近くが、帰る場所が決まらなかったり、不安定な生活を強いられたりして、中には「悪い」交友関係に逆もどりしたり、「貧困ビジネス」の標的になったりするらしい。

資本主義社会では、モノを長い間使わず、どんどん買い換えたほうがよい。モノを共有するのではなく一人一人がばらばらに所有したほうがよい。

経済ならまだいい。でもそれが人間関係だったら、と思うと怖い。

女子刑務所にあらわれている病理はこの社会全体を覆いつつある。そのことを忘れてはならない。

筆者の言葉は確かにこの社会全体を包む空気を描いている気がする。
 

2015年6月28日日曜日

女性のやせ過ぎを危惧する医療者の方にお願いしたいこと

6月27日放送のNHK週刊ニュース深読み "やせすぎ女性"過去最高 あなたの健康が危ない!?  に出演させていただきました。観てくださったみなさんありがとうございます。

やせすぎ女性の卵巣機能低下の話が番組の中で何度も強調されていました。

もちろん女性にとって出産は一大イベントでとても大事なものです。ですが、女性には出産の前も、その後も人生があります。出産という点のために生きている訳ではありません。女性の人生は出産という点も含み込んだ線なのです。

その線の中で女性は常にやせたほうがいい、やせたらきれいというメッセージにさらされおり、実際にやせたらいいことがたくさんあることも事実です。

またむやみやたらに生殖機能ばかりを強調することは、この問題を解決しないだけでなく、なんらかの事情で産みたくても産めない人たちすらも不必要に傷つけることになるでしょう。

やせすぎ女性の問題は女性を教育すれば解決する話ではありません。女性の身体をとりかこむ種々のメッセージ、そしてその影響を受けている男女すべての問題なのです。

人間は社会的に利益がある、言い換えると、人からほめられる・認められる、名誉を得られるといったことがあれば進んで健康を犠牲にする生き物です。そこからこの問題を捉えてほしいと切に願います。

2015年6月18日木曜日

ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間 by 久保明教

昨年から今年は実は文化人類学の出版ブーム。若手の人類学者が次々に本を出版している。その中の一冊の本著は、文化人類学の最先端の理論を用いてロボットを語る。

そこで語られるのは、鉄腕アトムから社会現象ともなったエヴァンゲリオンまでのロボットアニメ、さらには2014年に修理窓口が閉鎖し、愛犬の死を悲しむ飼い主がいることが報じられたアイボまでさまざま。ロボット好きであれば、人類学者の独特なロボットへのまなざしそのものが面白いのではないだろうか。

それはさておき、本書の主旨をざっくりまとめると、人間とロボットの違い、あるいは欧米のロボットと日本のロボットの違いといった、2つの対立項の比較ではなく、いっけん対立しているようにみえる2つの項がいかに交じり合い、お互いに影響し合い、そしてその結果それぞれがいかに変容しているのかをロボットを通じてとらえる試みとなるのではないかと思う。

グローバル化が進む現在、私たちは嫌がおうなしに、自分たちと他者との違いを意識せざるを得ない時代にあり、それはしばしばヘイトクレームといった、他者を徹底的に貶めることにより、自分たちの絶対的な優越性を誇示しようというような行動に結びつくこともある。

しかし本著の視点を用いれば、このような対立を自明のものととらえ、正しいのはどちらかといった視点から語るのは問題の表層しか見ていないということになるだろう。なぜなら実際は、その両者は密接に結び付きあい、交じり合い、影響し合い、お互いがお互いを変容させ続けているからである。

筆者はおわりにこう述べている。 

あなたが熱狂的に応援するワールドカップ日本代表のスポーツエリートとしての思考や身体のあり方よりも、理解できない言葉で叫ぶ異国のサポーターの思考や身体の方があなた自身のそれに近いかもしれない(p239)

もっとも異質なものは異国にあるのではなく隣にあり、もっとも同質性の高いものは隣にはなく遠く離れた異国にあるかもしれない。このまなざしは、IT技術によって複雑に結び付けられた世界に生きる私たちの生のありようを端的に示しているとは言えないだろうか。


本著はロボットの話しだが、ここで展開される視点は世界のさまざまな現象を捉える際に零れ落ちてしまいがちな、しかし現象の本質にある動態を把握するためにきわめて有効であると思われる。
 

2015年6月17日水曜日

おはなさんの死

羊毛とおはなのおはなさんの死が、少し前に伝えられた。
おはなさんの透明感のある歌声と歌詞が好きで、よく聞いたいた私としてはショックな出来事だった。

羊毛とおはなのブログには彼女のこんな手記が掲載されている。

人は面白いものです。自分が死んでゆくのを悟れるものだとわかりました。その悟りをしたあとは気持ちが晴れ、すごく楽になりました。私はもとも と人が死ぬことを悲しいという風に思っていませんでした。むしろ卒業というような喜ばしいことだとどこかで感じて生きていました。

乳がんと診断された彼女は、治療に際して最終的に化学療法でなく、東洋医学による治療を選択したらしい。「化学療法を選択していればよかったのに 」という専門家も多いのではないだろうかと思う。

でもおそらく彼女は何らかの理由で自分自身で治療法を決意し、そのことに悔いはなかったのだと思う。歌声は優しいけれど、おそらく彼女はとても強くてそして優しい人だったのだろう。

長い人生ではなく、自分の心で歩く人生を選択した彼女の生き方を、羊毛とおはなの歌を聞くたびに思い出さずにはいられない。
 





2015年6月3日水曜日

日本文化を語るのは誰か?

日本語は話せるけど、書いたり、読んだりは苦手。

おそらく多くの人は、そういう人が日本文化を研究することは難しいと思うでしょう。

ところが、文化人類学においては、日本語は話せるけど、書いたり読んだりすることは不得手という研究者が、日本について大手をふるって語っている現状が存在します。

それがグローバル化がすさまじい日本についての文化人類学的研究。

残念ながら英語で書かれた日本についての文化人類学的研究の中には、日本語で書かれた文献はほとんど読まず、英語で日本について書かれた先行研究ばかりを読んで書かれたものがたくさんあります。
 

逆に日本語で書かれた文献をふんだんに使った、英語で書かれた日本についての文化人類学的研究が、先行研究不十分として審査で落とされるなんて話も。

文化人類学の基本は相手の文化を尊重することですが、相手国の言葉で書かれた研究成果が見事にないがしろにされるというへんてこな事態が文化人類学では起こっています。

おそらくこのあたりは、日本語の文献が読めないと話にならない、歴史や文学では違うでしょう。日本人顔負けの語学力をもった研究者が多いことはよく知られています。

日本語が十分に読めない・書けない文化人類学者が日本とはなんたるかについて、堂々と語ってしまえる現状。この現状に一矢を報いることができるのは日本語を十分に読めて、書ける文化人類学者しかいないはずなのですが、実際は一矢を報いるどころかやられてしまっているのが現状といったところかなと思います。

第49回文化人類学会のラウンドテーブルは間違いなく拡大し続ける英語帝国にどのように立ち向かうかという話でした。まあ一言で言うと、英語が母語の研究者の2倍の努力をして、日本語と英語の両方で成果を発表せよということなのでしょう。自戒を込めて。



2015年6月1日月曜日

『臓器移植の人類学 身体の贈与と情動の経済』 by 山崎吾郎

脳死があるから臓器移植がある。
臓器移植は命の贈り物である。

おそらく多くの人はそう考えるだろう。

しかしこの順序は全く逆であると著者は喝破する。臓器移植を行うために、「脳死」という新しい定義が必要になったのだと。臓器移植を制度として成立させるために、臓器移植を贈り物として定義する必要があったのだと。
 

純粋な善行としてとらえられがちな臓器移植の陰にある、提供者の家族の葛藤と苦悶は、この制度の拡大が実は死の領域の拡大とひそかに結びついていることを示す。しかしそのようなドナー家族の声は提供者が徹底的に匿名化される中でかき消されてしまい、私たちの日常に届くことはない。

それまでは「生きていた」人が、法案の改正によって突如「死んだ」ことになってしまう。そんな瞬間を生きた「脳死者」の家族の気持ちを考えたことが私たちはあっただろうか?

日本文化の特異性という文化論の中で見えなくさせられていた、この国における臓器移植の動向の詳細が、制度・経済といったマクロな側面と、提供を受けた人・提供をした家族というミクロな側面の両面から照らし出される。

明確な答えが書かれているわけではない。しかし私たちが「当たり前」と思っている世界を揺るがし、現実世界の複雑さを示すことが文化人類学の1つの仕事であるとするならば、この著は間違いなく、読み継がれるべき文化人類学の一作といえるであろう。




2015年5月26日火曜日

同性愛・結婚・子ども

昨日のTBS「私の何がイケないの?」SPは2時間の同性婚特集。

レズビアン結婚式を挙げたことで話題になった東小雪さん、増原裕子さんカップルと、一ノ瀬文さん、杉森茜さんカップルが出演。

見ていて胸が痛んだのは結婚式を公にしたい一ノ瀬さん、杉森さんにひっそりやればいいと反対する両親の言葉、子どもを持ちたいと考える東さん、増原さんに生まれてくる子どもがかわいそう、いじめられたらどうするの?と聞くゲストや視聴者の言葉かけ。

そういいたくなる気持ちもわからなくはないけれど、それって彼女たちを偏見の目で見るかもしれない人々のことを暗に肯定している。いじめられる子どもじゃなくて、いじめる子どもを肯定してる。

ダウン症の子どもを持った両親に「どうして事前に検査をしなかったんだ」って言っちゃう人たちの言葉に構造がよく似てる。


黙っていた方がいい。
子どもがかわいそう。


「世間の目」の側でもっともらしいことをいう人は多いけれど、時代をよい方に変えていくのは常に「世間の目」に毅然と立ち向かった人たちであることを忘れずにいたい。

LGBTはこれまでの「生の当たり前」を揺るがす問題を提起する存在であるがゆえにこれからもいろんな議論が起こるだろうけど、とりあえず「世間の目」レベルの議論からは何も生まれないことは火をみるより明らかだと思う。

最近どこかしこで言われる多様性を私たちが自分たちの社会でほんとうに実現するためには、「世間」というふわっとした強制力が何によって作られているかを見極める確かな目と、どうしたらそれを変えていけるかを見据える豊かな創造力が必要なのかな思う。

2015年5月21日木曜日

力を奪う者たち


「最近の若者は自分で考えられない」
「最近の若者は打たれ弱い」

…など、「最近の○○論」はいつの時代も存在する。

とりあえず○○じゃない自分たちを気分良くして、問題の所在を自分じゃないところに置くにはすごく都合のいい論理。

でも最近、介護施設で働く院生さんから面白い話を聞いた。

介護施設の入居者さんは自分から立ち上がらなくなる場合があるのだという。

それはなぜか?

転倒してけがをするとその転倒は施設で働く人たちの責任になるから。

その院生さんは、「入居者さんの生きる力を奪っているのは私たちではないか」と自ら問いを立てていた。

私みたいに「教える」立場にある者は、常に同じ問いを自分の中に掲げていないといけないと思う。
学ぶ力、考える力、工夫する力を奪っているのは、教える側の自分ではないかって。

2015年5月10日日曜日

「もし」と「繰り返し」がすべて

プログラミング講座はとうとうPHPとデータベースの連携に入った。
簡単に言うと、ユーザーがブラウザに入力したことを、記録していく、と考えていけばいい。

今回は繰り返しを行えるwhile文の練習だったんだけど、その課題についての講師からのコメントが―


「実は全てのプログラムはif文とwhile文で書くことができるんです。」


と書いてあってびっくり。if文とは「もしーだったら、~こうしてね。」という命令を作るやり方。



確かに、『「もしーだったら、~こうしてね。」というのをAという条件下において繰り返してください』とするだけで、かなりのことができそうです。


私はまだできないけど…。

2015年5月9日土曜日

平均以上効果(Better-Than-Average Effect)


突然ですが、あなたは平均よりも公平にふるまっていると思いますか?

この質問をされるとほぼ100%の人がイエスと答えるそう。

でももし本当にそうだとしたら現実に合わない。

世の中には不公平なことがあふれてる。みんなが平均よりも公平にふるまっているのなら世の中もっといいはずにきまってる。いじめも差別も起こりえない。

人が、平均よりも自分は優れていると思う傾向を脳科学では「平均以上効果」(Better-Than-Average Effect)というそうです。

これって集団に向けてもいえそうで、最近あちらこちらで耳にする「自分たちは隣の民族よりも優れている」

―もこれに当たるのかもしれません。


(参照:『自分では気づかない―ココロの盲点』 池谷裕二 【朝日出版社】)

2015年5月8日金曜日

『新潮』コラム掲載:魅惑の菓子パン-禁じ/解かれる食の遊びと「摂食障害」

新潮社の文芸誌『新潮』の6月号にコラムが掲載されました。

「摂食障害」の調査を続けるに従い、とても気になる存在になっていった「菓子パン」。

とはいえ、研究としては行き過ぎた解釈だろうと思い心の中だけで温めていたのですが、今回文芸誌に機会を頂け世に出ることになりました。




2015年4月23日木曜日

複雑さは組み合わせから

ゼロからのプログラミング講座はとうとうHTMLとPHPとSQLの連携に入った。


HTML→作り手側が情報を表示するための言語

PHP→ユーザーが作り手側が提示した問いかけや呼びかけに対して具体的なアクションを起こすための言語

SQL→ユーザーが入力した情報を蓄積するための言語


一つ一つはシンブルな機能だけど、組み合わせていくとツイッターやフェイスブックやぐるなびのようなサービスになる。 シンプルな動きを組み合わせて複雑な動きにするスポーツみたい。

2015年4月13日月曜日

『なぜふつうに食べられないのか』書評 by 三好春樹さん

☆♪「ブリコラージュ」の連載も話題の、磯野真穂さんの新刊。人間(当然、老人も含む)がぶつかる課題に対して、医学という枠組みが、いかに狭いかが、よ〜くわかる。摂食障がいだけでなく、介護、精神障がいに関わっている人にお勧め。個体還元論から解放される快感を!

Posted by 三好春樹 on 2015年4月4日


三好春樹さんは、介護の領域で先進的な試みを多くなさっている、生活とリハビリ研究所所長さんです。

2015年4月8日水曜日

先送りの理由

先送りせずにすぐやる人に変わる方法』(佐々木正悟)におそらく多くの人には耳が痛いが、現実をついている言葉があった。


「時間ができたときにやります」
「あとでやります」


そういう人って自分も含めて多い多い。
時間がないからちゃんとできない、後でならもっとよくできると思うから。


でもそんな人たちに作者は一言。


あとでやったところで自分の才能も状況もほとんど変わらない「いま」が再びやってくるだけです。

未来の自分が今の自分よりよいなんてまずありえない。だったらいまやってしまおう。未来の自分により良い自分を用意しておこう。その筆者の言葉はすごく当たってる。

2015年4月4日土曜日

食べることの未来―石倉敏明×藤原辰史

少し前になるが、文化人類学者の石倉敏明さんと農業思想史が専門の藤原辰史さんの対談が生活工房であった。

登壇者に共通していたのは、「人間の身体をその外側の世界と分離して考えることなんてできないよ」、という点。

石倉さんの人間には「内臓」に加えて、「外臓」があるという話、藤原さんの「イカの踊り食いをした場合、そのイカはいつ自分になるのか」といういっけんすっとんきょうな質問が、食べるという行為の本質を突く。

私はいわゆる「摂食障害」という病気にかかった人たちの調査を10年以上してきた。その人たちは概してとても勉強熱心で、いろいろな専門書を読んでいるけど、たいていそれは医学や心理学、栄養学の観点から書かれたもので、こういう形の視点を聞くことはほぼないといってよい。 

ふつうに食べられなくなった人たちは、人文・社会科学の身体や食べ物のとらえ方を学ぶことで活路が見いだせるのでは、と思う時がしばしばある。なぜならそこにはそれまでにふれたことのない、身体や食べ物のとらえ方があるはずだから。




2015年4月1日水曜日

AIの衝撃 小林雅一

AIの歴史と現在をわかりやすく解説している新書

AIの進化に当たって脳科学が深くかかわっており、脳の解明がAIの進化に直結すると現在では考えられているらしい、というところが興味深い。

文化人類学的に見ると「意味を見出す、作り出す」というところまで、入らないとAIは人間の本質には届かない感じもする。

しかしこの書のいうようにAIロボットが私たちの生活空間にまで入り込み、その情報がGoogleといった企業に事細かに収集されるかと思うと恐ろしい。ペッパー君の目がとらえたものもそのままデータセンターに送られるのである。

でもFacebookとかLINEとかで自分の情報をばんばん開示してる人からしたら、そんなことたいしたことじゃないのかな。便利とは何物にも代えがたいものらしい。

2015年3月28日土曜日

機械との競争 エリック ブルニョルフソン/ アンドリュー マカフィー

技術革新は雇用を奪うのか?

著者の結論は、いまは奪っているがそれは技術革新のスピードに人間が追いつかないだけで、政治・教育・経済のあり方を変えればそれには対応できるという楽観的なもの。

しかしこれを読む限り、人間の二極化はますます進み、それに歯止めは効かないのではないかという印象が強い。

現代社会を生きる人間にとって幸せとは何かを逆説的に考えるための良書

ところで東京オリンピックに備えて導入される山手線の新車両には中吊り広告がなく、すべてディスプレイ広告に切り替わるそう。つまり中吊り広告を入れ替えしていた人の仕事がなくなっていくわけだ。昼間の中央線に乗ったとき、その入れ替えの速さに驚いたことがあるが、そういう風景も少しづつなくなっていくということ。




2015年3月21日土曜日

データベース作成

プログラミング講座はとうとうSQLに入った。SQLはデータベースのためのプログラム。

初回の課題が↓だったことを考えると、ずいぶんと成長を感じます。

 http://a1.zeroprm.com/b31_c50/4.html 

2015年3月18日水曜日

身近な先人の心に残る言葉

嫉妬は誰の心にもある。でもそれで人を傷つけたら、それは心の病気。

直接ありがとうなんて言われる必要なんかない。学生が人生のどこかで自分の言葉を思い出してくれたなら、それが教育の成功。

60なんてまだ若い。これからなんでもできるね。


どれも私より2倍以上生きた人たちの言葉です。

2015年3月14日土曜日

「原発依存を推進する文化を持つ国、ニッポン」― The New York Timesより。

ちょっと古いですが、2011年3月30日のニューヨークタイムズの記事は、”In Japan, a Culture That Promotes Nuclear Dependency”(原発依存を推進する文化を持つ国、ニッポン)。


気になったところの抜粋(要約している箇所あります)。

  • 40年前原子力発電所の建設に大反対した鹿島は、20年後、原発推進の町に変貌する。鹿島のような話は日本ではいたって普通のストーリーだ。

  •  反原発を掲げて2回の落選を経験した町会議員はこう話す―「あまりにも簡単にお金が手に入るため以前のように働く必要がなくなってしまう。」

  • 原子力発電所をいったん受け入れてしまうと、そのあとに起こるのは発電所の拡大である。なぜなら建設に伴って政府から与えられる補助金は稼働を境に次第に減っていくよう設計されているからだ。 

  • 補助金の減少と予算運営の甘さから2007年に破産寸前の財政危機に陥った双葉の決断は将来的に原子炉を8号機にまで増やすことだった。そしてその決断がされるやいなや双葉は新たな補助金を受けることになる。

  • 「原発を受け入れたことに後悔はない。この小さな田舎町が原発なしにこれからどうやって生き残っていくんだ。 」

この記事では、原子力発電所への依存は薬物依存に似ているところがあると述べています。一回、受け入れてしまうとそれなしには暮らせなくなってしまうから。

原発受け入れを決めた住民を非難するのではなく、地震大国の日本で―しかも東日本大震災後も―原発がなぜ推進されるのか、なぜ市民の反対の声が広がらないのか、原発依存の体制が権力によっていかに巧みに作られていくのかを、構造的な観点から複数の事例を交え紹介している記事です。

もっとたくさんのことが書いてあるのでぜひ読んでみて下さい。


2015年3月8日日曜日

計算をしたい人はこちら

ゼロプロの今回の課題は、ユーザーに好きな数字と演算子を選んでもらって、その結果をもとに計算結果を表示するというもの。

どんなのかというとこちら。↓

http://a1.zeroprm.com/b31_c50/15.html

見ての通り恐ろしく簡単なものなんだけど、なんとこれができるまでに半日もかかった。

その理由をものすごく簡単にまとめると、次のことを要所要素で見落としていたから。

1. 命令文の開始と終わりのいずれかを指定し忘れていたから。

  •  たとえていうと、おふろの栓を閉じずに、お湯を入れ始めて、お湯が全然たまらない感じ。

2.プログラムが上から下に必ず流れることを忘れていた

  • たとえていうと、ごはんを炊いた後に、その炊けたお米を洗っちゃってご飯が全然おいしくない感じ。

こういう風に例えるとなんとなくわかってもらえると思うんだけど、 プログラムの場合、エラーの出る細かさが違う。

例えて言えば、文章の「。」をつける位置が通常より5mm上にあったという理由で「次の文章は読めません」っていうくらい細かい。

課題が少し難しくなり始めてからよく思うことなんだけど、SEはその精神的、身体的疲労を鑑みて、税金で保護した方がいいと感じるくらい(笑)、プログラムと人間の考え方は違って驚く。

しかしそれを考えたのは人間なのだから、これまた面白い、とも思う。

また一方で、計画がなかなか立てられない人はプログラミングを学ぶと結構いいんじゃないかと思うことも多い。それについては次回のポストで書こう。




2015年3月2日月曜日

明日話すこと。4つ。

明日はリングァ・ギルド様が主催してくださる、拙著の出版記念&著者トークイベントの日です。
明日話すことは4つです。

1.私が「科学」をやめたわけ
2.人は「分ける」と「数字」が好き
3.食体験準拠論について
4.インタビューに協力してくださったみなさんに私が感じていたこと

場所は下北沢で19時から。お時間のある方、いらしてくださればうれしいです。
なんとなくですがあったかい会になりそうです。

詳細は下記になります。

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リングァ茶屋 Vol. 15
『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』
 出版記念&著者トークイベント
「食べること」。それは日常生活に欠かすことのできない営みです。でも仕事や人間関係のいざこざ、なんのきなしに始めたダイエット、あるいは病気など、いろいろな理由で「ふつうに食べられなくなった」経験がある人も多いのではないでしょうか。
「食べられなくなった」ことに「摂食障害」という病名がつけられることで、「食べられない人」と「わたし」の間を分け隔てる見えない壁が立ち現われてきます。
磯 野真穂さんは、一般的には拒食症や過食症という病名がつけられる、ふつうに食べられなくなった6人の女性たちの語りに、4年間111時間にわたって耳を傾 けることによって、「分け隔てる壁」が隠したものに光を当てようと試みます。そしてその病名が隠したものの中にこそ、ふつうに食べられなくなった理由があ るのではないかというのが磯野真穂さんの主張の1つです。
今回のリングァ茶屋では『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』の出版を記念し、著者の磯野真穂さんを囲んでお話しをお聞きします。ぜひご参加ください。

日時 2015年3月3日(火)午後7時~9時00分 (6時30分受付開始)
場所 世田谷区男女共同参画センター らぷらす(研修室3・4)
世田谷区北沢2-8-18 北沢タウンホール11階
小田急線・井の頭線「下北沢駅」北口より徒歩5分
小田急バス「北沢タウンホール」下車すぐ
(北沢タウンホール~駒沢陸橋)
参加費 500円(介助者は参加費無料です)

※ 事前予約をしていただけるとうれしいですが、当日直接お越しいただくのも大歓迎です。
※ ノートテイクが必要な方は、メールまたはFAXで、お問い合わせください。
※ 会場にはエレベーターがあります。サポートが必要な方は、メールまたはFAXでご連絡、お問い合わせください。
「リングァ茶屋」とは、言葉を大切にする翻訳会社リングァ・ギルドが「コミュニケーション」にこだわって開催するトークイベントです。
主催:リングァ茶屋 
協力:春秋社、OSU卒業生有志、グリーフサポートせたがや
予約・問合先:リングァ・ギルド
Tel 03-5452-4450 Fax: 03-6407-9844 
Email: lingua@linguaguild.com URL: linguaguild.com

2015年2月27日金曜日

『なぜふつうに食べられないのか』―信濃毎日新聞に紹介いただきました

「やせすぎていることを、社会が『美』や『健康』として過剰に評価している」ではなく、「適度にやせていることを社会が『美』や『健康』として過剰に評価している」と書いてくださったた記者さんに感謝。

Web記事はこちら

信濃毎日新聞は地元長野県の新聞です。



2015年2月20日金曜日

あなたにとって「死」とは何ですか

いまどきの大学生はこう考えました。

  • 心臓が止まったとき
  • 日常生活が送れないくらい身体機能が喪失したとき
  • 明日のジョーになったとき(燃え尽きたとき)
  • 現代医療の限りを尽くしたとき
  • 自力で生きられなくなったとき(機械につながれたとき)
  • 肉体の死、精神の死、社会的な死の3つがある

みなさんが思う死に当てはまる答えはありますか?

2015年2月19日木曜日

『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』  出版記念&著者トークイベント (3月3日19:00~@下北沢)

リングァ茶屋 Vol. 15

「食べること」。それは日常生活に欠かすことのできない営みです。でも仕事や人間関係のいざこざ、なんのきなしに始めたダイエット、あるいは病気など、いろいろな理由で「ふつうに食べられなくなった」経験がある人も多いのではないでしょうか。

「食べられなくなった」ことに「摂食障害」という病名がつけられることで、「食べられない人」と「わたし」の間を分け隔てる見えない壁が立ち現われてきます。

磯 野真穂さんは、一般的には拒食症や過食症という病名がつけられる、ふつうに食べられなくなった6人の女性たちの語りに、4年間111時間にわたって耳を傾 けることによって、「分け隔てる壁」が隠したものに光を当てようと試みます。そしてその病名が隠したものの中にこそ、ふつうに食べられなくなった理由があ るのではないかというのが磯野真穂さんの主張の1つです。

今回のリングァ茶屋では『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』の出版を記念し、著者の磯野真穂さんを囲んでお話しをお聞きします。ぜひご参加ください。

日時 2015年3月3日(火)午後7時~9時00分 (6時30分受付開始)
場所 世田谷区男女共同参画センター らぷらす(研修室3・4)
世田谷区北沢2-8-18 北沢タウンホール11階
小田急線・井の頭線「下北沢駅」北口より徒歩5分
小田急バス「北沢タウンホール」下車すぐ
(北沢タウンホール~駒沢陸橋)
参加費 500円(介助者は参加費無料です)


最強の占い

今日のあなたの運勢。
出てくるミサコボクサーは全部で3人。あなたは誰を引くかな?


http://a1.zeroprm.com/b31_c50/32.php





10か月の長いお休みを経て、ゼロプロを再開。
さぼってたんじゃないよ。書いてたんだよ。しかしゼロプロすごいな、占いまでできるようになるなんて。