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2018年2月19日月曜日

『人工知能の哲学』松田雄馬

本が面白いかどうかは、その本がどんな「問い」を立てているかに尽きると思う。
松田雄馬さん著『人工知能の哲学』はまさに問いが面白い。

著者はドラえもん好きらしい。

情報工学の専門家として、さまざまな最新技術にふれ、「人工知能」や「AI」がバスワードのようにネットにあふれる中で、「そもそも知能とは何か?」と本書は問う。

情報工学の歴史を紐解き、人が人の知能とどのようなものと捉えてきたのかが分かりやすい例と共に解説される展開がスリリング。

あと生命という自分の専門外の分野に果敢に突き進み、そこから情報工学が達成した知能、達成できていない知能を考察しているところも面白い。

ただ一方でもう少し言及が欲しかったのが、「意味」についての部分。最後の最後でふれられてはいるが、他の部分ほどの掘り下げはない。

おそらく人文・社会学の研究者であれば、本著が人間の外側にある【客観世界】を自明のものとして想定しているように見えるところが引っかかるのではないだろうか。

文化人類学者の私から見ると知能は人間の中にあるのではなく、世界と個人の間にあるもののような気がする。この辺り、松田さんにぜひ直接聞いてみたい。
 


2017年6月14日水曜日

オトナも使える「見たこと作文」

子どもの文章力がいつのまにか上達する本があると聞いたので読んでみた。

その名も、『親子で作る見たこと作文』(LCA国際学園 学園長 山口紀生 著)


正直手に取るのに多少の違和感があったのは否めない。小中高と一貫して田舎の公立出身の私は、関東の私立と聞くだけで、なんだか私とは違う世界に住んでいる人たちのような感じがしてしまうからだ。

でも読んでみたら、全然違った。



この本の目的は、子どもの文章力を上げるための親の手伝い方なんだけど、これは先生と生徒、上司と部下などなど「教える」ことが生じるありとあらゆる場面で使えると思う。

「見たこと作文」はそんなに難しいものではなく、文字通り見たことを文字にしていく。

「楽しかった」と書くのではなく、その時に何を見て、それがどんなだったのかを書く。


たとえば―

ゴールデンウィーク中にしおひがりに行きました。いっぱい貝がとれました。楽しかったです。

これを「見たこと作文」を使うと―


私はゴールデンウィーク中にしおひがりに行きました。行くときに周りにたくさん木が見えました。着いたところには草がいっぱい生えていました。…砂をくまでほると、消しゴムくらいの小さな貝がでてきました。いっぱい貝がとれました。

見たことをきちんと書くだけでもう全然違う。

私たちは成長の過程で言葉を覚え、たくさんのことをひとまとめにしてしまう癖をつけてしまう。「楽しかった」の中には、たくさんの出来事、見たこと、感じたことがあったはずなのに「楽しかった」という箱の中に全部を押し込めておんなじ色に塗ってしまう。

さらにやっかいなことに自分の言葉が、ほめられるような、評価されるような、時には無難に物事が進むような言葉を選ぶ。

楽しくもなかったのに、楽しかったと言ってみたり。

なぜか?

それは周りの大人がそういう方向に誘導するから。
こういう場合はこういう言葉を選びなさいと教えるから。

その結果、教えられる側は、自分が見たことではく、「正解」になる言葉を選ぶようになってしまう。ほんとうは見えていたものを見ていないといってしまう。そのうちにほんとうに見えなくなる。

(最近あるものをないと言っているエライ人たちがいるみたいだけど、その人たちはもはやほんとうに見えなくなっているのかもしれない。)

ひるがえって「見たこと作文」には正解がない。だって子ども一人一人が見たこと、感じたことをそのまま言葉にするだけだから。見たことや感じたとこに正解も、不正解もあるはずがない。

 私が素敵だなと思ったのは次の見たこと作文に対する山口さんのコメント

はじめて魚にさわってみた。ぬるぬるしていた。魚の目もさわってみた。ナイフの先で魚の目をおすと白目になった。はなすとまたもとの黒と黄色の目に戻った。しっぽはざらざらとしていた。ちょっとかたかった。

 これは魚を釣って、食べたときの「見たこと作文」。

これに対して山口さんはこう言う。

ナイフの先で魚の目を押すなんて大人の目から残酷に見えるかもしれない。 でもそれは大人の考え。その考えを押し付けて「そんなこと書くのは良くない。ちょっとかわいそうだったと書いたら?」、などといった瞬間に、子どもは自分の目で「見る」ことを、「感じる」ことを止めてしまう。大人の目から見た正しい世界の理解の仕方じゃなくて、子どもが見たこと、感じたことを大人もそのまま一緒に共有する。これが見たこと作文の流儀。(←これそのままの引用じゃなくて私の理解も入ってます)


上の立場にいる者が世界の見方、表現の仕方を強制する。これって親子に限らず、そこらじゅうで起こっていると思う。

何か問題が起こったとき、なぜ間違ったことをしたのではなく、「あなたはそこで何を見たのか、感じていたのか」と問えるかどうか。まず相手が見ていた世界を捉える努力をしているかどうか?

本著は、子どもの文章力を上げるための本なので「見たことパレット」といったツールや、形容詞の導入の仕方といったテクニックも盛り込まれているが、何よりも素敵なのはその底辺にある考え方だと思う。

そしてこの底辺にある考え方って、文化人類学者がやるフィールドワークと全く同じなんだよね。授業でも使えるんじゃないだろうか、とまで思ったくらい。

子どもの文章力を上げるといった目的だけでなく、風通しのよい人間関係を作り上げるための考え方として手にとっても十分に使える本だと思う。

おススメです。

2017年4月1日土曜日

アーサー・クラインマン 『8つの人生の物語ー不確かで危険に満ちた時代を道徳的に生きるということ』

クラインマンの最新作

アーサー・クラインマンを読むときに注意したいのは、彼が頻繁に用いる"moral "という意味をきちんと理解できるかどうか。
道徳と訳されていることが多いのですが、日本語の一般的な道徳の意味で受け取ると読み間違えます。
この本はmoralの意味をきちんと解説してあるという点でおすすめ。

2017年3月30日木曜日

時局発言!ー上野千鶴子



上野千鶴子さんの新刊。朝日新聞などに書評として書いていたものをまとめた一冊で、テーマごとに上野さんが選んだ本が紹介されています。

ところで、私がはじめて読んだ上野千鶴子さんの本は、早稲田大学の博士課程でとった授業の教科書として採用された『ナショナリズムとジェンダー』という本でした。


この分野については恥ずかしながら無知であるため、どこまで理解できたかはわからないのですが、精密な調査の上に紡がれる、物事の本質をズバッと突き刺すような言葉の選び方と、心地よい文章のリズムに感動したことをよく覚えています。

ついでに「フェミニズムが感情的になって騒いでいる女性達」っていうありがちなイメージが全然的外れなこともよくわかった本でした。そういうイメージを持っている人のがよっぽど感情的なことが実感としてわかった本でもあります。

最近は移民についての発言などでいろいろ言われたりもしているみたいだけど、それはさておき、この新刊でもその文章の切れ味は健在。おかげで紹介されている本を端から読みたくなっちゃいます。

かっこいい文章は、かっこいい文章を読むことから。
文章力を磨きたい人にももちろんお勧めの一冊です。

2016年11月16日水曜日

東田直樹 『飛び跳ねる思考』


人の目に映る自分の姿を想像しただけで、
この世から消えてしまいたい気分になります。
僕が抱えている心の聞は、どんな魔法をかけても消えません。
人は誰でも、心に傷を抱えながら生きているのではないでしょうか。
その傷が、すぐに癒える人もいれば、
いつまでも消えることなく残る人もいます。
そして、僕のように暗閣の中で悲鳴を上げ続ける人もいるのです。 
・・・ 
苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。
目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。
見ている僕はひとりぼっちなのに、
世界中の人とつながっている気分になります。
自然はどんな時も、人々に平等です。
そのことが僕の心を慰めてくれるのです。
お日様は頭上を照らし続け、風は四六時中、僕の隣を通り抜けます。
木々の緑は美しく、空気は澄んでいます。
こんな自然の中でなら、ありのままでいられるのです。
つらい気持ちは、どうしようもありませんが、
ひとりではないと思える瞬間が、僕を支えてくれます。


東田直樹 『飛び跳ねる思考』


大ベストセラー『僕が飛び跳ねる理由』を書いた重度の自閉症者、東田直樹さんの著書から。彼の文章は心にまっすぐやさしく届いてきます。たぶんそれは彼がまっすぐやさしく文章を書いているからなのでしょう。

そんな文章を書くことは、自分の心をそのまま出すことなので、簡単そうでなかなかできないことなんだと私は思います。

会話のできない自閉症の僕が考えていること

2016年6月27日月曜日

災害と子ども支援(著:安部芳絵)

あひるの親子がかわいい
 
「子どもは守ってあげなければいけない」
「子どもだから教えてあげなければいけない」

-大人が子どもに対して抱きがちなそんな思い込みが、むしろ子どもが災害を乗り越えて生きていくことを阻害しているのではないか。―

そのようなメッセージがはっきりと書かれているわけではない。書かれているのは、阪神・淡路や東日本大震災などで、子どもを巻き込みながら行われた実践の数々と、そこに参加した人々の声である。

でも、読後にはそのような思いが脳裏をよぎる。

そしてこの本の 主軸は「子ども」にあるが、考えさせれらるのは子どものことばかりではない。

たとえば、「こころ」って何?そういう議論がないままに被災地では「こころのケア」がどんどんと導入された。(東日本大震災における子どもに向けた支援で最も多かったのが「こころのケア」であった。)しかし被災体験を子どもに表出させることが子どもの「こころのケア」に必ずしもつながるのか?むしろ災害後、子どもたちが自然にやり出した「津波ごっこ」や「地震ごっこ」といった、子どもどおしの遊びの中でも、子どもは被災体験を乗り越えてゆくと筆者は指摘する。

震災後、女性にあてがわれる役割は、炊事や介護など、嫁・妻・母を想起させるものが多かった。しかし女性はすなわち嫁・妻・母なのだろうか?支援・復興の主体が「成人・男性・健常者」によって担われることで、「成人・男性・健常者」の視点から支援の枠組みが作られてしまう。支援の主体になった人間の思い込みが、支援からこぼれる人、あるいは本来ある力を発揮できない人を作り出してしまう。

支援とは「保護される人」を作り出す活動ではない。多様な人が自由に意見を表明できる環境を作ること、すなわち「保護される人」を増やすのではなく、「支援の主体になる人」を増やしていく活動なのである。

そう筆者は主張しているように私には思えた。

最後に、私は幸いにもこの本の執筆過程にしばしば立ち会うことができたのだが、その時に筆者がつぶやいた言葉で印象に残っているものがある。

「こころのケア」に資金を導入するより、その資金を子どもが安心して遊べる場所にバスを走らせることに使った方が有効なんじゃないでしょうか?

筆者は医師や心理士による「こころのケア」を否定しているわけではない。ただ、子どもは子ども同士のかかわりの中で、そして環境と主体的にかかわり合う中で自ら成長していくことを誰よりも知っているんだろうと思う。


2016年5月30日月曜日

不思議なクニの憲法

「いまの政治の問題は指導者の問題ではなく、国民の問題。」

「この国では、メッセージを持った瞬間に人が離れていく。」

「私たちは憲法を守るための「不断の努力」をしていたのだろうか?」

(日本国憲法第第十二条 :この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。)


 この国の憲法をとりまく問題をアメリカとの関係を歴史的に振り返りながら、様々な論者の声と日本国憲法の条文を同時に示しながら描いた渾身のドキュメンタリー。答えを示すのではなく、考えさせるスタンスも素敵だった。

 公式サイトはこちらから。
 それにしても朝9時30分スタートという、どう考えても軽くいけない時間にしかやっていないのが残念。でも、多くの人にぜひ見て考えて欲しい。

渋谷シネパレスで公開中

そしてその勢いで、「憲法改正」の真実 (集英社新書)を購入。
改憲・護憲という二項対立で憲法についての問題を語ると本質が見えなくなるという警告から、自民党改憲案で「個人」の記載が「人」に書き換えられていることがなぜ恐ろしいのか、そして立憲主義とはそもそも何なのかまで、初めて知ることがとても多く勉強になった。そしてこんなに知らなくて恥ずかしいな、とも思う。

新書はかなり当たり外れがあるけど、この新書は重厚感あり。

読みやすさをとにかく意識してる

次は、全く反対意見の論者の本も読んでみようと思う。


2016年3月28日月曜日

野の医者は笑う―心の治療とは何か(東畑開人)

臨床心理士の著者が、いわゆる怪しげな治療をするセラピストに次々と会う中で「心の治療とは何か?」という本質的な問いに向き合う学術的エッセイ

フィールドワークの真骨頂
 漆黒の眼で患者を見つめ、「ミルミルイッテンシューチュー」と唱えることでありとあらゆる病気を治すという謎の産婦人科医グシケン先生に始まり、沖縄のトンデモセラピスト(?)が次から次へと紹介される。

ただこの本の面白さは著者がそんなセラピストを鼻で笑うのではなく、そんな「トンデモ」セラピーでもよくなる人がいることを真剣に捉え、その事実を自らの専門領域である臨床心理に照らし返しながら、「心の治療とは何なのか?」を真剣に問い続けること。

いっけん意味のわからない他者の生から自らの生を問い直す著者の姿勢こそ、文化人類学的なフィールドワークの醍醐味で、それが著者のときどきの感情を交えながら、せきららにでも面白く記される。

フィールドワーク初心者の学生のテキストとしても使えるのではないかと思ったし、意味不明な日本人のあり方からアメリカ人のあり方を問い直した、ルース・ベネディクトの菊と刀 (講談社学術文庫)も想起させた。


研究者にしかわからないような難解な学術書にもできたはずなのに、それを誰にでも読めるようなエッセイ調に書き下し、自らも笑いのネタとして登場させてしまうところに、著者の謙虚で暖かな人柄が感じられる。

「こんなセラピストがいるの!?」という表層的に楽しむだけの読みもできるし、「治すとは何か?」「『正当』な医学とは何か?」といった本質的な問いに迫る読み方もできる良著。

いっけんよくわからないいかがわしいものと、いっけんよくわかって正しく見えるものは実はつながっている。

春休みの課題図書としてふさわしい一冊でした。


2016年1月6日水曜日

『都市と暴動の民衆史』―デモから暴動へ!若者が街頭を占拠した


なぜ人々は暴れたのか?

日比谷焼打ち事件から、米騒動そして関東大震災での朝鮮人虐殺までを、地続きの暴動とみなし、なぜこれら暴動は起こったのか、その根源的な要素をそれに参加した名も無き民衆の中に探索する作品。

藤野裕子/有志舎


これまで単に「民衆」と記された人々を、「男性」というしるしを帯びた人々として見返す視座は、「文化」としてニュートラルに描かれてきたものは「人間一般の文化」ではなく、「男性の文化」であったという、20世紀後半の文化人類学の気づきとも重なる。

一連の暴動の鍵として扱われる、承認欲求や上昇志向は、この本で注目される、暴動の担い手であった下層男性労働者に限らず、すべての人間が持っているものであろう。自らの承認欲求や上昇志向が知らず知らずのうちに加害に結びつくことへの警告を発しているようにも感じられた。

それにしてもいま生きている人たちを主な研究の対象とする文化人類学と違い、すでにこの世を去った名もなき人々に関する細かな資料を探し出し、それを当時 の社会的、政治的文脈と結びつけながら、彼らの思いと感情に入り込むという気の遠くなるような試みに、筆者はどれだけの時間と知性と感情を注ぎ込んだのだ ろうと思う。引用される様々な資料をみるだけでも楽しめる一冊だった。

2015年12月22日火曜日

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』



大学教員を始めてから、「難しい学生とは距離を取りなさい」「専門家に任せなさい」というアドバイスを、経験のある先輩方から何度ももらった。それはそれで納得がいくところもありつつ、同時に強い違和感も抱いていた。

『大丈夫、死ぬには及ばない―今大学生に何が起きているのか』
稲垣諭著/学芸みらい社

「距離をとること」、「専門家に任せること」、それが教員のあるべき姿なのだろうか。私は、「難しくない学生」だけと向き合うべきなのだろうか。

授業が増えれば増えるほど、教員にとっての学生は、どうしてもone of themになってしまう。だから諸先輩方の言っていることもわからなくはなかったし、自分に「難しい学生」と向き合うだけの「スキル」と呼ばれるものがある自信もなかった。

(その「スキル」とやらが何かはよくわからないけれど)

『大丈夫、死ぬには及ばない』の読了後に一種のすがすがしさを覚えたのは、この本が、私が抱いていた違和感を肯定してくれたからなような気もする。


若者に日々ふれあう仕事をする人たちに、ぜひ目を通してほしい。


共同通信書評

2015年12月10日木曜日

ストレスの正体

私たちの日常会話に欠かせないものになった「ストレス」。
心身の不調の原因を語る際に欠かせないものになった「ストレス」。

しかし「ストレス」は、その存在に対して科学的な証明があったり、その定義に関して専門家の「合意」があるわけではない。

「ストレス」という概念が一般的になったのは、第2次大戦以降であり、それが広がった原因は、その概念がさまざまな領域―動物と人間、近代化と人間、病気と人間…―をつなげる力があったからである。

ストレスに関する科学的な調査はたくさん出されているが、大元になっている概念が科学的でないことはよくあるお話し。

-参考文献:"Stress, Shock, and Adaptation in the Twentieth Century"

2015年6月18日木曜日

ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間 by 久保明教

昨年から今年は実は文化人類学の出版ブーム。若手の人類学者が次々に本を出版している。その中の一冊の本著は、文化人類学の最先端の理論を用いてロボットを語る。

そこで語られるのは、鉄腕アトムから社会現象ともなったエヴァンゲリオンまでのロボットアニメ、さらには2014年に修理窓口が閉鎖し、愛犬の死を悲しむ飼い主がいることが報じられたアイボまでさまざま。ロボット好きであれば、人類学者の独特なロボットへのまなざしそのものが面白いのではないだろうか。

それはさておき、本書の主旨をざっくりまとめると、人間とロボットの違い、あるいは欧米のロボットと日本のロボットの違いといった、2つの対立項の比較ではなく、いっけん対立しているようにみえる2つの項がいかに交じり合い、お互いに影響し合い、そしてその結果それぞれがいかに変容しているのかをロボットを通じてとらえる試みとなるのではないかと思う。

グローバル化が進む現在、私たちは嫌がおうなしに、自分たちと他者との違いを意識せざるを得ない時代にあり、それはしばしばヘイトクレームといった、他者を徹底的に貶めることにより、自分たちの絶対的な優越性を誇示しようというような行動に結びつくこともある。

しかし本著の視点を用いれば、このような対立を自明のものととらえ、正しいのはどちらかといった視点から語るのは問題の表層しか見ていないということになるだろう。なぜなら実際は、その両者は密接に結び付きあい、交じり合い、影響し合い、お互いがお互いを変容させ続けているからである。

筆者はおわりにこう述べている。 

あなたが熱狂的に応援するワールドカップ日本代表のスポーツエリートとしての思考や身体のあり方よりも、理解できない言葉で叫ぶ異国のサポーターの思考や身体の方があなた自身のそれに近いかもしれない(p239)

もっとも異質なものは異国にあるのではなく隣にあり、もっとも同質性の高いものは隣にはなく遠く離れた異国にあるかもしれない。このまなざしは、IT技術によって複雑に結び付けられた世界に生きる私たちの生のありようを端的に示しているとは言えないだろうか。


本著はロボットの話しだが、ここで展開される視点は世界のさまざまな現象を捉える際に零れ落ちてしまいがちな、しかし現象の本質にある動態を把握するためにきわめて有効であると思われる。
 

2015年6月1日月曜日

『臓器移植の人類学 身体の贈与と情動の経済』 by 山崎吾郎

脳死があるから臓器移植がある。
臓器移植は命の贈り物である。

おそらく多くの人はそう考えるだろう。

しかしこの順序は全く逆であると著者は喝破する。臓器移植を行うために、「脳死」という新しい定義が必要になったのだと。臓器移植を制度として成立させるために、臓器移植を贈り物として定義する必要があったのだと。
 

純粋な善行としてとらえられがちな臓器移植の陰にある、提供者の家族の葛藤と苦悶は、この制度の拡大が実は死の領域の拡大とひそかに結びついていることを示す。しかしそのようなドナー家族の声は提供者が徹底的に匿名化される中でかき消されてしまい、私たちの日常に届くことはない。

それまでは「生きていた」人が、法案の改正によって突如「死んだ」ことになってしまう。そんな瞬間を生きた「脳死者」の家族の気持ちを考えたことが私たちはあっただろうか?

日本文化の特異性という文化論の中で見えなくさせられていた、この国における臓器移植の動向の詳細が、制度・経済といったマクロな側面と、提供を受けた人・提供をした家族というミクロな側面の両面から照らし出される。

明確な答えが書かれているわけではない。しかし私たちが「当たり前」と思っている世界を揺るがし、現実世界の複雑さを示すことが文化人類学の1つの仕事であるとするならば、この著は間違いなく、読み継がれるべき文化人類学の一作といえるであろう。




2015年5月9日土曜日

平均以上効果(Better-Than-Average Effect)


突然ですが、あなたは平均よりも公平にふるまっていると思いますか?

この質問をされるとほぼ100%の人がイエスと答えるそう。

でももし本当にそうだとしたら現実に合わない。

世の中には不公平なことがあふれてる。みんなが平均よりも公平にふるまっているのなら世の中もっといいはずにきまってる。いじめも差別も起こりえない。

人が、平均よりも自分は優れていると思う傾向を脳科学では「平均以上効果」(Better-Than-Average Effect)というそうです。

これって集団に向けてもいえそうで、最近あちらこちらで耳にする「自分たちは隣の民族よりも優れている」

―もこれに当たるのかもしれません。


(参照:『自分では気づかない―ココロの盲点』 池谷裕二 【朝日出版社】)

2015年4月8日水曜日

先送りの理由

先送りせずにすぐやる人に変わる方法』(佐々木正悟)におそらく多くの人には耳が痛いが、現実をついている言葉があった。


「時間ができたときにやります」
「あとでやります」


そういう人って自分も含めて多い多い。
時間がないからちゃんとできない、後でならもっとよくできると思うから。


でもそんな人たちに作者は一言。


あとでやったところで自分の才能も状況もほとんど変わらない「いま」が再びやってくるだけです。

未来の自分が今の自分よりよいなんてまずありえない。だったらいまやってしまおう。未来の自分により良い自分を用意しておこう。その筆者の言葉はすごく当たってる。

2015年4月1日水曜日

AIの衝撃 小林雅一

AIの歴史と現在をわかりやすく解説している新書

AIの進化に当たって脳科学が深くかかわっており、脳の解明がAIの進化に直結すると現在では考えられているらしい、というところが興味深い。

文化人類学的に見ると「意味を見出す、作り出す」というところまで、入らないとAIは人間の本質には届かない感じもする。

しかしこの書のいうようにAIロボットが私たちの生活空間にまで入り込み、その情報がGoogleといった企業に事細かに収集されるかと思うと恐ろしい。ペッパー君の目がとらえたものもそのままデータセンターに送られるのである。

でもFacebookとかLINEとかで自分の情報をばんばん開示してる人からしたら、そんなことたいしたことじゃないのかな。便利とは何物にも代えがたいものらしい。

2015年3月28日土曜日

機械との競争 エリック ブルニョルフソン/ アンドリュー マカフィー

技術革新は雇用を奪うのか?

著者の結論は、いまは奪っているがそれは技術革新のスピードに人間が追いつかないだけで、政治・教育・経済のあり方を変えればそれには対応できるという楽観的なもの。

しかしこれを読む限り、人間の二極化はますます進み、それに歯止めは効かないのではないかという印象が強い。

現代社会を生きる人間にとって幸せとは何かを逆説的に考えるための良書

ところで東京オリンピックに備えて導入される山手線の新車両には中吊り広告がなく、すべてディスプレイ広告に切り替わるそう。つまり中吊り広告を入れ替えしていた人の仕事がなくなっていくわけだ。昼間の中央線に乗ったとき、その入れ替えの速さに驚いたことがあるが、そういう風景も少しづつなくなっていくということ。