2018年1月7日日曜日

4歳の歩き方から「生きる」を考えました



お正月に4歳の女の子と神社にわたあめを買いに行きました。
そんな中での発見です。

結論から言うとー

子どもは目的地につくことも大事だけど、目的地につくまでも大事。
でも大人は目的地につくことだけが大事。


まあ一言でいうと、着くまでにとにかく時間がかかるのです(笑)


  • 変わった草が落ちていたので拾ってみる。→そのために下を向いたら、近くに落ちていた葉っぱも気になるので、そのまま違う方向へ。→そっちはヤマダ電機の方角です!
  • 前から歩いてきたお友達に大きな声で挨拶する → 「こんにちは!!!」→そんな100デシベル超えるような声で話しかけたら、びっくりするでしょ。→実際びっくりしてた。
  • 少し高いところがあったので、そこに乗って平均台みたいにして歩く →まっすぐ歩いても遅いのに、そんなカニさん歩きしたら、あなたの速度は30m/分っ!!
  • 帰り道疲れてきたようなので、「抱っこしようか?」といったら→「もう4歳だから自分で歩くの」→「あなたのために」みたいなことを言いながら、「実際は抱っこして早く進んでしまえ」という魂胆があった罪深い大人をお許し下さい


最後は「(歩くの)ちょっと厳しいけどね」と言いながら、わたあめを左でにしっかり持って彼女は行きと帰りの計2時間近くを歩ききったのです。

一緒に歩いてみて思ったのは、彼女にとって家から神社までの道のりは線なんだってこと。

もちろんわたあめが買いたい!、早く帰って食べたい!っていうのはあるんだけど、出発から到着までの線はどこが大事でどこが大事じゃないとかではなくて、その線のどこも大事。彼女は分け隔てなく、たどり着くまでの世界をきちんとみて、面白いもの、楽しいこと、さわってみたいこと、にきちんと反応をして動いている。

一方、大人(代表ワタシ)はどうだろう。多分私たちにとってそれまでの道のりは、どうでもいいもの。家という点、神社という点が結びつけばそれでいい。その間は、できるかぎり効率的に進みたい。早ければ早いほどいい。

4歳の彼女にとっては線である世界が、その10倍の年齢である私には点と点の結び合わせに変わっちゃっている。

いつ私はこんな風になったんだろう。ずっと昔は彼女みたいに生きていたはずなのに。

私はスタートからゴールまでの道のりを線という世界で捉え、線の中で見える世界をきちんと感じることができているだろうか?
かっこよく・効率的にゴールテープを切ることだけがいつのまにか目標になっていないだろうか?

102cm・4歳の彼女からだいじなことを教えてもらったのです。



2017年12月31日日曜日

人を救うもの




今年、私を救ってくれた言葉があって、それはー

「真穂は最近すごく忙しかったんだから疲れて当然だよ」

だった。

なぜこんなありがちな言葉に救われたかというと、その言葉が、朝起きてから寝るまでの私のどうでもいい動きや、ささいな言葉を見たり、聞いたりしている人から出たものだったからだと思う。

確かに、夏休みあたりから年末までを振り返ってみると、身体が疲れること、頭が疲れること、そして心がへとへとになることがいろいろあって、それを踏まえると、もしかすると私はいろんな意味で「忙しかった」のかもしれない。

でも私は元来、忙しくなるのは自分の能力が不足しているからで、したがってそれをダダ漏れにするのはもっと「ダサい」と思っている人なので、私の頭の中に「忙しい」という言葉が上がって来ることはほとんどない。

だから私の細かな日々を知っている人からその言葉が出たのは私にとってはちょっとびっくりで、「そうか私は忙しかったのだ」、いや「忙しいと思ってよかったのだ」と思えたことで、私はものすごく救われた。言われたその時は、なんだかとにかく疲れてたし、気分は落ち込むし、「楽しい気持ちになれないのはなぜなのだ?」と思っていたから。

で、何を言いたいのかというと、人を救うのって、「自分の具体的な人生の軌跡を知っている人の何気ない言葉なんだよね」、ってこと。

啓発本とかで元気が出ることもあると思うけど、そういうのってレッドブル的なテンションの上がり方で、それは人を救っているというよりは、残っているエネルギーをさらに燃えさせているのかもしれない。

自分の具体的な歩みを、さわったり、感じたりできる、具体的な空間の中で見てくれている人、共に生きてくれている人が自分の周りにいること。
そういうことが幸せを作っていくのかもしれません。

今年私と言葉を交わしてくださった皆さま、私と関わってくださりありがとうございました。

みなさま、良いお年をお過ごしください。



2017年11月3日金曜日

【開催報告】からだのシューレVol.8「かわいいの作り方」


「かわいい」って一体何からできているんでしょう?
かわいい人が一瞬にして、かわいくなくなったり、かわいいくない人が、一瞬にしてかわいくなることはあるんでしょうか?

からだのシューレ第8回目は、普段何気なく使うけれど、よくよく考えるとわからない「かわいい」をテーマに開催しました。

今回のトリは地面にいます。

《前半:KJ法をやってみよう!》


まずは文化人類学者の川喜田さんが開発したKJ法と呼ばれる方法で、ブレインストーミングを行います。3グループに分かれ、「かわいい」と直感的に感じるものをどんどん付箋に書いてもらい、それを種類ごとにグループ分けをしてもらいました。


手前の方は―

くまもん、石原さとみ、顔が小さい、目が大きい、まゆ毛が長い。

奥の方は―

ハート、丸、チーリュップと書いてらっしゃいますね。

さて、これらに何か共通点はあるでしょうか?


お次は分類です。グループで出した言葉を、意味が似通ったもの同士でまとめて、それらに表札をつけてもらいます。さてどんな表札がでてくるでしょうか。



こちらのチームは、「小さい」「丸」という表札ができてますね。「嫌なものを乗り越えるためのツール」(嫌なことでもそれを「かわいい」と思うことで乗り越えられる)という面白い表札も出てきています。




表札をつけ終わったら、今出されたキーワードと、表札を見ながら、「かわいい」とは何かについて考えます。

こちらのチームは、いやし、心の端っこをさわられる、胸のときめき、といった言葉と関連するのが「かわいい」のではないかという回答がでています。


一方、こちらのチームは、<おでん>から<笑顔>までのキーワードを「有村かすみ的な」の一言でまとめています!

様々な言葉が出ましたが、「かわいい」とは一体どんな状態なのでしょうか?
KJ法の後は、全体に戻りいまいちどかわいいについて考えます。

《後半:かわいい⇔かわいくない》




後半のお題の1つこちら。この猫ちゃんから「かわいさ」をはぎとるにはどうしたらいいでしょうか?

自由に考えてもらいます。


答えがこちら、なんだかおどろおどろしい感じになってきました。

キバを出して目を吊り上げ、病気で、くさくて、目やにが出て、威嚇をして、ネズミをシャット捕まえて、唸っている猫

確かにかわいくなさそうです…



他に考えてもらったお題の1つはこちら。有名なエマ・ワトソンさんの国連でのスピーチです。切れ味鋭く、非常に堂々としてワトソンさんのスピーチですが、このワトソンさんをできるかぎり「かわいく」するにはどうしたらいいでしょうか?


原稿を目の前で両手で掲げて読む。
声を高くして、もっと舌足らずに話す。
前髪を作って、ふわふわワンピースを着る―

など、ずいぶんと子どもらしくなるような言葉が出てきますね。


さて前半でやった「丸」、「小さい」、「癒し」とからめながら、「かわいい」は何かを考えてみましょう。

私たちはいったいどのようなものに「かわいさ」を覚えるのでしょうか。



まずわかるのは、「かわいさ」は、猫とか、子どもどか、存在そのものに内在されているのわけではない、ということです。

ふるまい方や、見栄え、態度が変われば、一瞬にして、かわいいものは、かわいくなくなり、ひるがえって、かわいくないものは、かわいくなってしまいます。

次に、出てきたキーワードからわかること。それはー

「かわいい」には、親しみやすいというポジティブな要素がある一方で、自分に対して危害を加えてこない、自分より下であり、不完全であるといった意味合いもあるということでしょう。

「かわいくなりたい」という気持ちは、女性であれば一度は持つことのある気持だと思います。

ですが、それが行き過ぎると、大人であるのにわざと子どもっぽくふるまってみたり、できることをできないように見せたり、といった行為につながることもわかります。

逆に「かわいげがない」と相手が自分に言ってくる時は、「自分に対して批判的なことを言うな」、「自分に従っていろ」、といった意味合いも含むことがわかるでしょう。

日本は特に「かわいくあること」が重要視される文化です。それは不完全なものにもよさを見出すという意味でよいことでもありますが、一方で、堂々と意見を言ったり、自立した大人としてふるまったりすることを否定的な目で捉えるというマイナスな方向に進んでしまう場合もあります。

「かわいい」に過度に迎合することなく、うまい付き合い方をしていきたいものですね。

座談会の後のアンケートタイム。いつもありがとうございます!

<次回のお知らせ>

さて、次回の「からだのシューレ Vol.9」は来年の1月29日となります。

次回は筑波大学の湯澤さんとLIXILの山上さんをお迎えし、なんと「うんちとトイレ」について思う存分語っていただきます。湯澤さんは前回大好評の講義をしてくださった歴史学者、山上さんはケニアでトイレを作られている方です。みなさまのご来場心よりお待ちしております♪(お申し込みはこちらから)

からだのシューレ vol.9 うんちとトイレが世界を変える!? 




日時:2018年01月27日(18:15〜21:00 ※18:00受付開始)
場所:渋谷区文化総合センター大和田/区民学習センター2F 学習室2


●概要

生きていく上で欠かせない排泄。そしてそれを受け止めるトイレ。

「うんち」と「トイレ」から眺めると、どんな世界が見えてくるのでしょうか?
今回は歴史学者の湯澤規子さんと株式会社リクシルの山上遊さんを迎えてのクロストーク企画です。

十分な水がなく、衛生的なトイレを使えない人が、世界には24億人いると言われています。 ケニアで「循環型無水トイレ」の開発・普及に奔走する山上さん、100年前の日本の経験を研究する湯澤さんと、現代と過去、ケニアと日本へクロストリップしてみましょう。


●タイムテーブル
18:00 受付開始
18:15 世界共通のうんち事情と世界多様のトイレ事情
18:25 うんちとトイレの話(現代編:ケニア)
18:55 うんちとトイレの話(歴史編:日本、主に愛知県)
19:25 からだと社会とジェンダーの話(クロストーク)
19:45 うんちとトイレが世界を変える!?(ワークショップ)
20:15 質疑応答
20:30 閉会

2017年9月25日月曜日

かわいい、うんち、物語



2016年3月より7回にわたり続けてきた『からだのシューレ』は、2017年3月の第10回目を持っていったん終了とし、充電期間に入ることに致しました。

文化人類学者として、食べ物や身体がどんどん数値化されていく社会、あなたの身体は十分ではないというメッセージを発し続ける社会のあり方に危機感を感じ、林さんに協力をお願いして始めたワークショップでした。

第1回目は「誰か来てくれるのだろうか」と正直不安でしたが、蓋を開けてみれば、7回を通じてすでに150名のさまざまな背景の方が足を運んでくださるイベントとなりました。ここまで続けた来られたのも、来てくださった皆様お一人おひとりのおかげです。心よりお礼申し上げます。

残り3回ですが、次のような計画を立てております。お忙しいと思いますが、お時間のある方はぜひいらしてください。皆様との再会を林さんとともに心よりお待ち申し上げます。

今後の予定は以下のようになります。


<「からだのシューレ」今後の予定>

◉9月30日(土)Vol.8 「かわいいの作り方」 (13:30ー16:30 [180分]@ウィメンズプラザ  /1500円 【参加者:どなたでも】)

3時間座談会付きの付きの拡大バージョンです。テーマは「かわいい」について。 

ちょっと変わった切り口から、ふだん何気なく口にする「かわいい」の輪郭を探ります。日本の若い女性にやせすぎが多いこととも関連させながら、「かわいい」とは何かについて考えてゆきましょう。

また今回は3時間座談会付きの拡大バージョン!その中では、大学の講義で使うと必ず盛り上がる手法であり、また研究やビジネスでも使われている、KJ法という手法も導入します。(座談会は飲み物付きです。)

いつもより入場料が五百円お高くなっていますが、その分楽しんでいただけるよう工夫を凝らしています。来週お時間のある方ぜひお越しください!

★お申込みはこちらから↓


1月27日(土)Vol.9  「ちょっと不思議なうんちの話」(仮題)(90分@表参道・渋谷近辺 /1000円【参加者:どなたでも】)
※時間と場所は決まり次第お伝えします。

大人気だった筑波大学准教授の湯澤規子さんと、ケニアでトイレを作る活動をしていらっしゃる、LIXIL(株式会社リクシル総合研究所)の山上遊さんをお迎えしてのレクチャーです。

現在絶賛企画中ですが、こちらも盛り上がること間違いなしのテーマです。

3月下旬  Vol.10最終回 『あなたの食と物語ー糖質制限ブームを通じて考える』(仮題)(90分@表参道・渋谷近辺 /1000円 【参加者:ダイエットや食生活に関心のある女性】)
※時間と場所は決まり次第お伝えします。

最終回は磯野が担当します。テーマは、食べ物と物語。食べ物というとカロリーや栄養素で捉えてしまいがちですが、食べ物には物語としてとらえるというもう1つの捉え方があります。この数年大ブームの糖質制限の構造を批判的に解き明かしながら、物語としての食のあり方について考えてみます。

体重やカロリーが気になって仕方がない人、ダイエットに少し疲れ
たなと思う人、そんなみなさんの気持ちが少し楽になるワークショップになればと考えています。

2017年9月24日日曜日

花乃公案(12月17日@銀座)―能の公演


講演で鞍馬天狗を演じられる浅見さんは、能面を付けた後、舞台の袖にある大きな鏡の前で30分座るのだという。

その役になるために。

そして終わった後も能面を外して30分間、鏡の前に座るのだという。

役に憑依し、憑依を解く。


また能面をつけると視界が遮られてほとんど見えないので、どうするのかと聞いたら、見えなくても大丈夫なように練習を重ねるのだという。本番は除法しか見えなくても演じられる。身体が立ち位置を覚えているから。

能の世界奥深すぎます。



2017年9月13日水曜日

その臨床に意味はあった―ソーシャルワークと文化人類学



「自分たちの臨床に言葉を与えてもらった」


医療人類学を20世紀後半に日本に広めた波平先生が、医師に医療人類学のことを話すときにもっとも言われる言葉がこれだと言っていた。(←若干うろ覚えだけど)

実際、私も国際医療福祉大学の大学院で臨床経験の長い医療者の方に医療人類学を伝え始めてからこういわれることがある。

物質的に心身に変化を起こすことは、数値や画像で表すことができるため、成果として見せやすい。でも人間はすべて数値や画像で表すことができるわけではなく、実はそここそが機械ではできない人間ならではの部分だったりする。

でも残念ながらその作業に言葉は与えられておらず、それゆえに自分のやっていることに意味があるのかないのか、自信を無くしてしまう人もいる。

9月10日(日)の日本医療社会福祉学会大会では、ソーシャルワーカーの山本みどりさんとのコラボレーション。山本さんが提供する事例を文化人類学の視点から分析。それをフロアにいるソーシャルワーカーの皆さんにふり、その視点から考えてもらうという企画をした。

制度の中で均質化されがちな患者さんを、均質化されえない人間として生活の中に位置づけ続ける作業、時には制度や組織に抗することがソーシャルワーク。

皆さんのお話を聞きながらそんなことを感じた。そして、そんな皆さんの仕事をまとめ上げるこうなるんじゃないですか? 、と言えるのが文化人類学、なのかなと感じた。

名前を与えることには、よい部分と、よくない部分があるけれど、経験の中に沈み込んでいる知恵を形ある何かとして抜き出す作業はとても大事で、その際に文化人類学の言葉が役に立つ。

たかがコトバ。
されどコトバ。

2017年7月11日火曜日

からだのシューレ Vol.7 『あなたの胃袋誰のもの?』



今回は筑波大学准教授湯澤規子さんをご招待してのワークショップ。湯澤さんは歴史と地理学をベースにフィールドワークを続けていらっしゃる実直な研究者です。



いつもより10名ほど多い参加者の方を迎えての今回は、どんなお話になるのでしょう。主催者もわくわくです。


食は生きている限り欠かせないものであるにもかかわらず、研究者の関心はもっぱら政治や経済に集まり、食にはあまり注目がなされてこなかったとお話しされる湯澤さん。

すぐそばにある「小さな歴史」を考える。
うーん。素敵なフレーズです。



まずは湯澤さんの現在の研究の1つである一膳飯屋のフィールドワークの紹介から。新宿の東南口の駅前には大正時代からの食堂が残っているのだそうです。当時は戦争中だったため外食をするのにも政府が発行した券が必要だったとか。



そしてお話は本題へ。

すると湯澤さん、オレンジの布を手に取りなんかごそごそしはじめました。


まさか着替え?


こんなの主催者も聞いてません!!





なんと登場したのは「胃もたれ」T-シャツ!
この日のために新調されたとのことです(笑)

清楚な雰囲気を漂わせる先生が突然着替えたので会場爆笑。ヒートアップ!





熱気が冷めやらぬままディスカッションに突入しました。

お題は「胃袋って何だろう」、「胃袋に耳があったら何を聞いている?」。
胃袋T-シャツの湯澤さんのファシリテーションで楽しく時間が進みます。いろんな答えが出ていますね。

ところがここですでに時間は19時47分。導入の一膳飯屋で楽しくなってしまった湯澤さん。思いの外時間を使いすぎてしまったようです。ワークショップの副題は「食と社会の200年」。残り40分で200年を話しきれるのか?!


こちらは20世紀初頭の屋台。なんと「大福・食パン」ののれんがみえます。どんな屋台なんでしょう。入ってみたい…。

 

忙しくて休む暇がないと嘆く、お正月の「胃吉さん」と「腸臓さん」。飽食の時代が訪れていたのですね。


ですが一方で、明治初期は貧困層が現れた時代でもありました。新宿には日々の食に困る人のための食堂があったとか。帝国ホテルなどから廃棄分として出る骨に着いた肉や、パンの切れ端などを工夫して安価な食事が提供されていたとのことです。





お話は戦時期に突入。手に持っているのは丸秘と書かれた当時の政府の資料。なんと手書きのガリ版刷りです。

極秘入手!したわけではなく、古本屋で売られていたそうです(笑)
時間は極秘資料を町の書店に引きずり出すんですね…。





こちらは当時の啓発ポスター。オレンジで「戦時食料の確保」と書かれています。



そして戦争が終わり現代へ。時間はあと5分もありません!!(撤収時間が決まっていたので延長が難しかったのです…)

がくんと右下がりしている黒線のグラフはお米の消費量。時代は胃袋をどうやって満たすか、の時代から、どうやって満たさないか、の時代へと突入します。

「胃袋をどうやって満たすか」という関心から、「舌」と「目」で楽しむ飽食の時代、そして栄養学の導入と共に「頭」で食べる時代へ。そしてSNSの広がりとともに私たちは「他人の目」で食べる時代へと移り変わっていきました。

いまの私たちの食べ方は、長い時代の中で見るととても特殊なもので、もしかするとほんの一瞬現れただけにすぎない可能性もあることがわかります。

なぜか得意げな湯澤さん



大好評だった湯澤さんのワークショップ。参加したみなさんだけでなく、湯澤さんも楽しんでくださりました。また講師としてお呼びしようと考えています!ぜひご来場くださいね。

 

トリは今回も飛びました。