私たちの日常会話に欠かせないものになった「ストレス」。
心身の不調の原因を語る際に欠かせないものになった「ストレス」。
しかし「ストレス」は、その存在に対して科学的な証明があったり、その定義に関して専門家の「合意」があるわけではない。
「ストレス」という概念が一般的になったのは、第2次大戦以降であり、それが広がった原因は、その概念がさまざまな領域―動物と人間、近代化と人間、病気と人間…―をつなげる力があったからである。
ストレスに関する科学的な調査はたくさん出されているが、大元になっている概念が科学的でないことはよくあるお話し。
-参考文献:"Stress, Shock, and Adaptation in the Twentieth Century"
2015年12月10日木曜日
2015年11月10日火曜日
会話の死
スマートフォンが生まれる前、私たちは目線を合わせ、言葉を交わす以外に選択がなかった。
しかしその時代はすでに過ぎさった。
今私たちは、スマホの画面に目を落とすことで、言葉を交わすよりもずっと重要なことをしている「ふり」をすることができる。
これはもはや「会話の死」に他ならない。それは生きる上での苦痛をさらに増やしているだけのように私には感じられる。
Before mobile phones were invented, people would have had no choice but to interact. However, that is no longer necessary as we can all now “pretend” we are doing something “important” on our devices rather than think of something to say. This is killing conversation. I believe it’s increasing social pain. (http://www.boredpanda.com/the-death-of-conversation/)
しかしその時代はすでに過ぎさった。
今私たちは、スマホの画面に目を落とすことで、言葉を交わすよりもずっと重要なことをしている「ふり」をすることができる。
これはもはや「会話の死」に他ならない。それは生きる上での苦痛をさらに増やしているだけのように私には感じられる。
Before mobile phones were invented, people would have had no choice but to interact. However, that is no longer necessary as we can all now “pretend” we are doing something “important” on our devices rather than think of something to say. This is killing conversation. I believe it’s increasing social pain. (http://www.boredpanda.com/the-death-of-conversation/)
2015年11月9日月曜日
葉っぱのほんとうの色
「秋に色づいた葉っぱが、ほんとうの葉っぱの色なんだって」
誰が考えたのか知らないけど、そう考えたことは今までなかった。
生まれたときにはみんな同じ感じなのに、日の当たり方や、育った場所によって、色づくタイミングも、色づき方も少しずつ違ってくる。
そう考えると人間も同じだなって思う。
みんながこの考えを持っていたら、もみじマークへのクレームなんてなかったんだろうな。
2015年9月16日水曜日
怒り
>とりわけ、SEALDsの女性陣への攻撃は 、もはや犯罪レベル、サイバーテロとも言うべき酷さだ。 本名や交遊関係がさらされ、あることないこと書き立てら れ、グロ画像や猥褻画像を送りつけられる。下劣で性的な 馬事雑言をSNSのコメント欄やツイッターで書きつける ・・・etc。
志葉 玲さんのFacebookから
2014年に起こった香港の海傘運動でも、参加女性の「性」が反対派の攻撃対象となったそうです。
なぜこういうときに女性の性は必ずと言ってよいほど、攻撃の対象になるのだろう。
顔も名前も出して声を上げる女性たちの性を、攻撃対象にする匿名の弱虫たち。
怒りに胸がうずく。
志葉 玲さんのFacebookから
2014年に起こった香港の海傘運動でも、参加女性の「性」が反対派の攻撃対象となったそうです。
なぜこういうときに女性の性は必ずと言ってよいほど、攻撃の対象になるのだろう。
顔も名前も出して声を上げる女性たちの性を、攻撃対象にする匿名の弱虫たち。
怒りに胸がうずく。
強引なプリングルス
おいしいんだけど、とにかく捨てにくい。スチールの底の胴体への執着といったらハンパなく、ゴミをまとめる私の心を打ち砕く。
フィートをセンチに換算しないで輸出をするアメリカの強引さがよく出てる。
ちなみにオレゴンにいた時に、向こう100年間何を捨てても大丈夫なゴミ捨て場が掘ってあるって聞いたことがある。都市伝説か?
2015年9月10日木曜日
コルセット、纏足、そしていま。
美しければ健康である、というのはとんでもない誤解で、女性の美しさというのは往々にして健康を犠牲にするものである。
時代をさかのぼってみると、欧米で女性の美しさを象徴するものであったコルセット。腰回りをめちゃくちゃ締め付けるシロモノである。ひどい場合には、骨盤が割れるなんてこともあったらしい。
中国の纏足。小さい足の女性がよちよち歩きをする姿が、セックスアピールになったらしい。成長途中の足を大きくならないようにがんじがらめにが布で巻いてしまうのであるから、これはいわずもがなで健康に悪い。
こんなの例外的なものでしょ?、と思うかもしれないが、いまだって女性らしさを形作るいろいろなものは身体に悪い。
例えば、ハイヒール。後部の着地面が異様に小さく、靴底は薄い。外反母趾や、靴擦れ、さらにはふくらはぎの異様な疲れなど、身体によい要素は一つもない。
さらにはメイク。この前友人が、メイクをしたまま寝るのは、「ぞうきんを顔にかけたまま寝るのと同じらしい」と言っていた。その真偽はともかく、顔にいろんな化学物質をぬって、皮膚呼吸を妨げるのであるから、ふつうに考えて身体によいはずがない。
寒い時期のスカート。いくらブーツと厚手のストッキングで足を覆ったところで、ズボンにはかなわない。女性は身体を冷やさないようにっていうにね。
「健康的な女性がいい」って言うけれど、ノーメイク・スニーカー・ズボンの女性と、メイク・ヒール・スカートの女性。どっちがデートに誘われるか、どっちがかわいいと認知されるか考えてみてほしい。
ただ女性の美しさに関する最近の議論で注目したいのは、ほんとうに健康と美しさがセットで語られるようになったということ。
でもそれは、これまでの女性がおしゃれをして健康を崩してきたことによる反省からではなく、20世紀後半の私たちの社会がとんでもない健康オタクになったから。そして資本主義社会と相まって、健康は自助努力で達成できるもの、健康はお金で買えるもの、という考えが定着しているから。
健康はお金でなんか買えない!、と反論した人もいるかもしれないけど、星の数ほどあるサプリメントに、トクホのような健康食品、安全な食品、様々なエクササイズなど、私たちは健康になるためにお金をつかうのを惜しまない。
女性の美しさは常に時代の写し鏡となるけれど、昨今の「美しい=健康」ブームもちゃんと時代を反映しているのである。
ではそのような女性はほんとうに健康なのか?
美しいと社会に認知されること自体が、本人の心身の健康に少なからず影響を与えるはずなので、その身体自体がそもそも健康とは言い難いだろう。事実、若い女性のやせすぎは2000年からの日本の課題で、それ自体も「やせる=美しい」という価値を反映したものなのだから。
時代をさかのぼってみると、欧米で女性の美しさを象徴するものであったコルセット。腰回りをめちゃくちゃ締め付けるシロモノである。ひどい場合には、骨盤が割れるなんてこともあったらしい。
中国の纏足。小さい足の女性がよちよち歩きをする姿が、セックスアピールになったらしい。成長途中の足を大きくならないようにがんじがらめにが布で巻いてしまうのであるから、これはいわずもがなで健康に悪い。
こんなの例外的なものでしょ?、と思うかもしれないが、いまだって女性らしさを形作るいろいろなものは身体に悪い。
例えば、ハイヒール。後部の着地面が異様に小さく、靴底は薄い。外反母趾や、靴擦れ、さらにはふくらはぎの異様な疲れなど、身体によい要素は一つもない。
さらにはメイク。この前友人が、メイクをしたまま寝るのは、「ぞうきんを顔にかけたまま寝るのと同じらしい」と言っていた。その真偽はともかく、顔にいろんな化学物質をぬって、皮膚呼吸を妨げるのであるから、ふつうに考えて身体によいはずがない。
寒い時期のスカート。いくらブーツと厚手のストッキングで足を覆ったところで、ズボンにはかなわない。女性は身体を冷やさないようにっていうにね。
「健康的な女性がいい」って言うけれど、ノーメイク・スニーカー・ズボンの女性と、メイク・ヒール・スカートの女性。どっちがデートに誘われるか、どっちがかわいいと認知されるか考えてみてほしい。
ただ女性の美しさに関する最近の議論で注目したいのは、ほんとうに健康と美しさがセットで語られるようになったということ。
でもそれは、これまでの女性がおしゃれをして健康を崩してきたことによる反省からではなく、20世紀後半の私たちの社会がとんでもない健康オタクになったから。そして資本主義社会と相まって、健康は自助努力で達成できるもの、健康はお金で買えるもの、という考えが定着しているから。
健康はお金でなんか買えない!、と反論した人もいるかもしれないけど、星の数ほどあるサプリメントに、トクホのような健康食品、安全な食品、様々なエクササイズなど、私たちは健康になるためにお金をつかうのを惜しまない。
女性の美しさは常に時代の写し鏡となるけれど、昨今の「美しい=健康」ブームもちゃんと時代を反映しているのである。
ではそのような女性はほんとうに健康なのか?
美しいと社会に認知されること自体が、本人の心身の健康に少なからず影響を与えるはずなので、その身体自体がそもそも健康とは言い難いだろう。事実、若い女性のやせすぎは2000年からの日本の課題で、それ自体も「やせる=美しい」という価値を反映したものなのだから。
2015年7月24日金曜日
人文・社会科学の規模縮小―責められるべきは政府だけ?
政府からの通達で、国公立大学における人文・社会科学領域の規模縮小に拍車がかかりそうだ。
当然のことながら、全国の人文・社会科学者から「人文・社会科学をつぶすとはなんたることか」との怒りの声が上がっている。
私の専門の文化人類学も人文・社会科学に当たるため、この話は他人ごとではない。「人文・社会科学を縮小させるなんて、なんてあさはかな」、と思う。
ただ一方で近年のこの動きは自業自得なんじゃ?と思うところも多い。
たとえば、 私が大学で受けた人文・社会科学の授業は、1つをのぞいて、おしなべて恐ろしくつまらなかった。
先生が自分の専門領域のことをつらつらと話している。それが日常生活にどう結びついて、どう生かせるのかはさっぱりわからない。成績もAが来たけど、なんでAなのかは不明。
そんな私に、人文・社会科学教員はこういうかもしれない。
「それは自分で考えなさい」
「つまらなかったのは、あなたが面白さを見つける努力をしなかったから」
でもそんなことを言われても、あのころの私にはこれっぽっちも響かないだろう。
だってつまらないんだから。人のせいにしないでください、とでも言ってしまいそう。
私が人文・社会科学の面白さを知ったのはアメリカに留学してからで、日本の大学では残念ながらなかった。
人文・社会科学者は、人文・社会科学が面白くてたまらない、これがなかったら世の中荒んでしまうと心から思う学生を世に輩出してきたのだろうか?いまの私には人文・社会科学にかかわる大学教員の多くがそういう仕事をしてきたとはどうしても思えない。
自分の学問領域の中に閉じこもり、仲間内でしかわからない言葉を話し続け、わからない人は「教養がない」と足蹴にし、授業を適当にこなしてきた結果が、いまの状態なんじゃないだろうか。私は自然科学出身だから、人文・社会科学の言葉の特殊さ、わかりにくさはよくわかる。逆に、それゆえの面白さも、有用性も。
規模縮小に怒る気持ちもわかるけど、「そうさせてしまったのは結局自分たちなんじゃないか」、そういう視点がいまの議論には欠けている気がする。
当然のことながら、全国の人文・社会科学者から「人文・社会科学をつぶすとはなんたることか」との怒りの声が上がっている。
私の専門の文化人類学も人文・社会科学に当たるため、この話は他人ごとではない。「人文・社会科学を縮小させるなんて、なんてあさはかな」、と思う。
ただ一方で近年のこの動きは自業自得なんじゃ?と思うところも多い。
たとえば、 私が大学で受けた人文・社会科学の授業は、1つをのぞいて、おしなべて恐ろしくつまらなかった。
先生が自分の専門領域のことをつらつらと話している。それが日常生活にどう結びついて、どう生かせるのかはさっぱりわからない。成績もAが来たけど、なんでAなのかは不明。
そんな私に、人文・社会科学教員はこういうかもしれない。
「それは自分で考えなさい」
「つまらなかったのは、あなたが面白さを見つける努力をしなかったから」
でもそんなことを言われても、あのころの私にはこれっぽっちも響かないだろう。
だってつまらないんだから。人のせいにしないでください、とでも言ってしまいそう。
私が人文・社会科学の面白さを知ったのはアメリカに留学してからで、日本の大学では残念ながらなかった。
人文・社会科学者は、人文・社会科学が面白くてたまらない、これがなかったら世の中荒んでしまうと心から思う学生を世に輩出してきたのだろうか?いまの私には人文・社会科学にかかわる大学教員の多くがそういう仕事をしてきたとはどうしても思えない。
自分の学問領域の中に閉じこもり、仲間内でしかわからない言葉を話し続け、わからない人は「教養がない」と足蹴にし、授業を適当にこなしてきた結果が、いまの状態なんじゃないだろうか。私は自然科学出身だから、人文・社会科学の言葉の特殊さ、わかりにくさはよくわかる。逆に、それゆえの面白さも、有用性も。
規模縮小に怒る気持ちもわかるけど、「そうさせてしまったのは結局自分たちなんじゃないか」、そういう視点がいまの議論には欠けている気がする。
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