2016年6月27日月曜日

災害と子ども支援(著:安部芳絵)

あひるの親子がかわいい
 
「子どもは守ってあげなければいけない」
「子どもだから教えてあげなければいけない」

-大人が子どもに対して抱きがちなそんな思い込みが、むしろ子どもが災害を乗り越えて生きていくことを阻害しているのではないか。―

そのようなメッセージがはっきりと書かれているわけではない。書かれているのは、阪神・淡路や東日本大震災などで、子どもを巻き込みながら行われた実践の数々と、そこに参加した人々の声である。

でも、読後にはそのような思いが脳裏をよぎる。

そしてこの本の 主軸は「子ども」にあるが、考えさせれらるのは子どものことばかりではない。

たとえば、「こころ」って何?そういう議論がないままに被災地では「こころのケア」がどんどんと導入された。(東日本大震災における子どもに向けた支援で最も多かったのが「こころのケア」であった。)しかし被災体験を子どもに表出させることが子どもの「こころのケア」に必ずしもつながるのか?むしろ災害後、子どもたちが自然にやり出した「津波ごっこ」や「地震ごっこ」といった、子どもどおしの遊びの中でも、子どもは被災体験を乗り越えてゆくと筆者は指摘する。

震災後、女性にあてがわれる役割は、炊事や介護など、嫁・妻・母を想起させるものが多かった。しかし女性はすなわち嫁・妻・母なのだろうか?支援・復興の主体が「成人・男性・健常者」によって担われることで、「成人・男性・健常者」の視点から支援の枠組みが作られてしまう。支援の主体になった人間の思い込みが、支援からこぼれる人、あるいは本来ある力を発揮できない人を作り出してしまう。

支援とは「保護される人」を作り出す活動ではない。多様な人が自由に意見を表明できる環境を作ること、すなわち「保護される人」を増やすのではなく、「支援の主体になる人」を増やしていく活動なのである。

そう筆者は主張しているように私には思えた。

最後に、私は幸いにもこの本の執筆過程にしばしば立ち会うことができたのだが、その時に筆者がつぶやいた言葉で印象に残っているものがある。

「こころのケア」に資金を導入するより、その資金を子どもが安心して遊べる場所にバスを走らせることに使った方が有効なんじゃないでしょうか?

筆者は医師や心理士による「こころのケア」を否定しているわけではない。ただ、子どもは子ども同士のかかわりの中で、そして環境と主体的にかかわり合う中で自ら成長していくことを誰よりも知っているんだろうと思う。


2016年6月21日火曜日

ハト×医者×ボクシング

ハトといったら平和の象徴。


 医者といったら聴診器




ボクシングトレーナーといったらミット



でもー

ハトはそんなに平和じゃないし(特にお城とか公園のやつ)、聴診器を使わない医者もいるし、ミットはトレーナーの仕事のほんの一部でしかありません。

象徴は便利なものですが、そのものについてのイメージを簡単に作ってしまうため、全体像を隠してしまったり、思い込みを作ってしまうことも多いです。

で、何が言いたいかって、元プロボクサーの福本雄基さん(写真内のさわやかお兄さん)がボクシングフィットネスクラブを東武練馬駅から徒歩5分のところで始めました。



運動不足の人はぜひ足を運んでください。
イメージよりずっと奥深いボクシングの面白さがみえるでしょう。 

「運動なんて買い物袋持つ以外したことありません!」って方から、「ちょっとマジでやってみたい」って方まで幅広く対応してくださるはずです。

場所はミサコジム内ですが、別媒体なのでお間違えのないように!

2016年6月13日月曜日

拒食・過食の経験者が教えてくれた、「からだのシューレ」の意外な効果

8月6日で第3回目を迎える「からだのシューレ」には、「やせたい」という現象に興味を持つ大学生、拒食や過食を経験した人から、そうでない人、はたまた小さいお子さんを持つ女性まで、幅広い人が参加してくださっています。

参加者はすごく多様


告知文にも書いている通り、このワークショップは摂食障害の治し方を考えるものではありません。ですが、拒食や過食の当事者の方から、当初は予測していなかった意外な反応を頂くことができています。
「『治す』が入っていない見方が初めてだったので楽しかった」
「自分を変えましょうというアプローチではないのがいい」
「自分の外側の世界のことが冷静に考えられてすごく面白い」

そもそもこのワークショップは文化人類学がベースになっているため、「拒食・過食=摂食障害=治すべきもの」という見方がありません。なので「どうやったら治るか」とか、「摂食障害は『治る』病気です!」というアプローチには、でんぐり返しをしてもなりえないのが特徴です。

このワークショップでは、矢印が参加者の心のうちではなく、それをとりまく世界、つまり外側に向いているのです。

そこを意識していたわけではないのですが、そんな文化人類学の見方が、思わぬ効果を生んでいることが上で紹介した、みなさんの感想から見えてきました。

そういえば、拙著を読んでくれた過食の経験者の方もこんなことを言っていました。

お医者さんやカウンセラーが書いた本は、どんなに言葉を選んでかかれていても、そこには「あなたのここがよくないから治しましょう」っていう見方が絶対にある。だから何とかしようと思って読めば読むほど、「自分がだめな人間」に思えてくることがよくあった。でも「なぜふつうに食べられないのか」は「あなたのここが悪い」っていう書き方がされていないから、読んでいて心が軽かった。

私は「『拒食・過食』=『病気』、だから治しましょう」という見方が間違いだとは思っていませんし、それには利点もあると思っています。ただ私はこの見方が絶対的に正しい見方とは思っておらず、むしろこういう見方をすることで、見えなくなるものもあると考えています。

「病気と一般的にみなされているものを、病気とみない。そうなるとその現象はどう見えるのか?」

これは文化人類学においては、基本中の基本といえるスタンスなのですが、文化人類学に初めてふれる方には、この視点が新鮮のようです。

身体や食、そしてダイエットや体重、美しさや自分らしさといった、身体や食をとりまく現象についてちょっと違う見方をしてみたい方は、「からだのシューレ Vol.3 」にぜひお気軽にご参加下さい!



2016年6月8日水曜日

数字と身体の不思議な関係-からだのシューレ第2回終了!

数字は私たちの感覚を変えてしまう

カロリーを気にし始めたのはいつですか?
それ以降、どんな変化がありましたか?

6月2日に行われた「からだのシューレ」では、身体や食べ物を数字で見はじめると私たちの生活に何が起こるのかに着目しました。

アイスブレークの後のディスカッションの問いは、カロリーを気にすることでそれまでと変わったこと。参加者の皆さんからは下記のような回答がよせられました。

食べたもののカロリーを記録していくことでみるみるやせていった。そのうち、より低く、より低く、と思うようになり、常に食べ物のカロリーが頭の中をぐるぐる回るようになった。

商品棚のものを片っ端から裏返していくようになった。記載のないものは買わない。大きく赤字で“カロリー5kcal”とか書いてあると欲しくもないのに、買う。カロリーの高いもの(パン)買ったら、負け。

買いものの時とりあえずカロリーをチェックするようになった。
食べたいものが2つある時にカロリーを基準に低いものを選ぶようになった。

カロリー(栄養)表示を見る。カロリーをわざわざ調べる―「〜kcalだから食べるのはやめよう。」「食べすぎだから夕食は抜こう。」

頭で食べるようになった。味わう「食」は遠くなって考える「食」が近くなった。

食べられるものの数(種類)が限られるようになった。 好きなもの、食べたいものだから、というだけでものを食べることが出来にくくなった、

好きかきらいかやなくて、カロリーでものを選ぶようになった

食べものが良いもの/悪いものの2つに分けられるようになった
食と罪悪感がセットになった恐怖
「好きだから食べる」「おいしいから食べる」ではなく、 食べて良いか、悪いかといった価値判断に基づき食べるものが判断されていることがわかります。つまり、それまでのように感覚的に食べることができなくなっているのです。


数字も色もない世界

数字を持たないピダハン

しかし世界にはカロリーはおろか「数字」すらもたない民族もいます。
今回紹介したのはアマゾンに住むピダハンの人々。

ピダハンは、数字どころか、色も、正しいという概念も、さらには創世神話も持たない私たちからするととても不思議な民族です。

ワークショップではピダハンの人々の世界観を契機に、「数字ってどんなものなのだろう」と考えました。

そして導かれた答えは「カロリーは食べ物の中には存在しない」。

詳細は省きますが、参加者の皆さんが「確かに!」とうなずいた瞬間です。

おいしさと物語


おいしいには物語がある。でもカロリー計算を始めると?

実はこのワークショップの導入に「あなたが最近食べたおいしいものは何ですか?」 「 それはどうしておいしかったのでしょう?」という質問をしていました。


そこで出てきたのは、「好きな人と1時間並んで食べた食べログで評判のラーメン」、「バイト後のお腹が空いているときに食べたとろとろ卵のオムライス」、「友人8人でみんなで作って食べた餃子パーティー」など、その人の楽しかった思い出が手に取るようにわかるような物語の数々。
 (中には、「おいしいというより、カロリーゼロで甘くて量があり画期的だと思った」というコンビニの炭酸水についてのお話もありました。)

「おいしさ」には食べ物をとりまく物語があります。でもカロリー計算を始めるとおいしさとは別のところでものを食べるようになってしまう。そのことがカロリー計算を始めてからみなさんに起こった変化からわかります。


カロリー計算を始めると、人と一緒においしさのストーリーを作ることより、食において人に勝つこと、自分に勝つことが重要になってしまいがちです。数字は競争とすこぶる相性がいいため、これは必然的な結果と言えるでしょう。

カロリー計算といういまの社会で推奨される行為は、食べ物と私たちの間で紡ぎだされる物語を容易に消してしまいます。

それは一見取るに足らないことにみえるかもしれません。
でも実際は、その物語こそが私たちが生きる上で欠かせない安心できる、暖かな人のつながりを作ってくれています。

そのことを私たちは忘れがちなのではないでしょうか?


どうやら私は講義中にこのポーズをよくするらしい(恥)


そして、そして第3回目の日程がなんともう決まっております!

次回(8月6日)はは夏休みバージョン30分拡大版で行う「からだのシューレ」。テーマは「ダイエットとけがれ」について。

文化人類学の本丸中の本丸、「けがれ」の概念から、ダイエットを始めると現れることのある「自分の身体が汚い」「食べ物が汚い」という気持ちについて考えてみます。

お申し込みはこちらからどうぞ!