2015年6月30日火曜日

「女子刑務所」の診察室から見えること

 
昨今の政治・経済的状況が強要する非正規雇用へのシフトや、新自由主義が私たちに課する不安定な身分は、まさに人間を短期的な利害だけによって扱うものである。しっかりと足場を構えた上で、周囲の人々と長期的な関係を結んでいくことが、いま土台から切り崩されている。この意味で、女子刑務所にあらわれている病理はこの社会全体を覆いつつある。そのことを忘れてはならない。 
松本卓也 「「女子刑務所」の診察室から見えること」 『女たちの21世紀』 2014, 8月

女子刑務所の非常勤医師としてはたらく筆者の観察では、女子刑務所に入る多くの女性が、長期的な人間関係を作れず、いまここでの利益を最大限にすればよいというような短期決戦での人間関係を作ってしまいがちであるという。

筆者にレバ、女性の満期釈放者の3割近くが、帰る場所が決まらなかったり、不安定な生活を強いられたりして、中には「悪い」交友関係に逆もどりしたり、「貧困ビジネス」の標的になったりするらしい。

資本主義社会では、モノを長い間使わず、どんどん買い換えたほうがよい。モノを共有するのではなく一人一人がばらばらに所有したほうがよい。

経済ならまだいい。でもそれが人間関係だったら、と思うと怖い。

女子刑務所にあらわれている病理はこの社会全体を覆いつつある。そのことを忘れてはならない。

筆者の言葉は確かにこの社会全体を包む空気を描いている気がする。
 

2015年6月28日日曜日

女性のやせ過ぎを危惧する医療者の方にお願いしたいこと

6月27日放送のNHK週刊ニュース深読み "やせすぎ女性"過去最高 あなたの健康が危ない!?  に出演させていただきました。観てくださったみなさんありがとうございます。

やせすぎ女性の卵巣機能低下の話が番組の中で何度も強調されていました。

もちろん女性にとって出産は一大イベントでとても大事なものです。ですが、女性には出産の前も、その後も人生があります。出産という点のために生きている訳ではありません。女性の人生は出産という点も含み込んだ線なのです。

その線の中で女性は常にやせたほうがいい、やせたらきれいというメッセージにさらされおり、実際にやせたらいいことがたくさんあることも事実です。

またむやみやたらに生殖機能ばかりを強調することは、この問題を解決しないだけでなく、なんらかの事情で産みたくても産めない人たちすらも不必要に傷つけることになるでしょう。

やせすぎ女性の問題は女性を教育すれば解決する話ではありません。女性の身体をとりかこむ種々のメッセージ、そしてその影響を受けている男女すべての問題なのです。

人間は社会的に利益がある、言い換えると、人からほめられる・認められる、名誉を得られるといったことがあれば進んで健康を犠牲にする生き物です。そこからこの問題を捉えてほしいと切に願います。

2015年6月18日木曜日

ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間 by 久保明教

昨年から今年は実は文化人類学の出版ブーム。若手の人類学者が次々に本を出版している。その中の一冊の本著は、文化人類学の最先端の理論を用いてロボットを語る。

そこで語られるのは、鉄腕アトムから社会現象ともなったエヴァンゲリオンまでのロボットアニメ、さらには2014年に修理窓口が閉鎖し、愛犬の死を悲しむ飼い主がいることが報じられたアイボまでさまざま。ロボット好きであれば、人類学者の独特なロボットへのまなざしそのものが面白いのではないだろうか。

それはさておき、本書の主旨をざっくりまとめると、人間とロボットの違い、あるいは欧米のロボットと日本のロボットの違いといった、2つの対立項の比較ではなく、いっけん対立しているようにみえる2つの項がいかに交じり合い、お互いに影響し合い、そしてその結果それぞれがいかに変容しているのかをロボットを通じてとらえる試みとなるのではないかと思う。

グローバル化が進む現在、私たちは嫌がおうなしに、自分たちと他者との違いを意識せざるを得ない時代にあり、それはしばしばヘイトクレームといった、他者を徹底的に貶めることにより、自分たちの絶対的な優越性を誇示しようというような行動に結びつくこともある。

しかし本著の視点を用いれば、このような対立を自明のものととらえ、正しいのはどちらかといった視点から語るのは問題の表層しか見ていないということになるだろう。なぜなら実際は、その両者は密接に結び付きあい、交じり合い、影響し合い、お互いがお互いを変容させ続けているからである。

筆者はおわりにこう述べている。 

あなたが熱狂的に応援するワールドカップ日本代表のスポーツエリートとしての思考や身体のあり方よりも、理解できない言葉で叫ぶ異国のサポーターの思考や身体の方があなた自身のそれに近いかもしれない(p239)

もっとも異質なものは異国にあるのではなく隣にあり、もっとも同質性の高いものは隣にはなく遠く離れた異国にあるかもしれない。このまなざしは、IT技術によって複雑に結び付けられた世界に生きる私たちの生のありようを端的に示しているとは言えないだろうか。


本著はロボットの話しだが、ここで展開される視点は世界のさまざまな現象を捉える際に零れ落ちてしまいがちな、しかし現象の本質にある動態を把握するためにきわめて有効であると思われる。
 

2015年6月17日水曜日

おはなさんの死

羊毛とおはなのおはなさんの死が、少し前に伝えられた。
おはなさんの透明感のある歌声と歌詞が好きで、よく聞いたいた私としてはショックな出来事だった。

羊毛とおはなのブログには彼女のこんな手記が掲載されている。

人は面白いものです。自分が死んでゆくのを悟れるものだとわかりました。その悟りをしたあとは気持ちが晴れ、すごく楽になりました。私はもとも と人が死ぬことを悲しいという風に思っていませんでした。むしろ卒業というような喜ばしいことだとどこかで感じて生きていました。

乳がんと診断された彼女は、治療に際して最終的に化学療法でなく、東洋医学による治療を選択したらしい。「化学療法を選択していればよかったのに 」という専門家も多いのではないだろうかと思う。

でもおそらく彼女は何らかの理由で自分自身で治療法を決意し、そのことに悔いはなかったのだと思う。歌声は優しいけれど、おそらく彼女はとても強くてそして優しい人だったのだろう。

長い人生ではなく、自分の心で歩く人生を選択した彼女の生き方を、羊毛とおはなの歌を聞くたびに思い出さずにはいられない。
 





2015年6月3日水曜日

日本文化を語るのは誰か?

日本語は話せるけど、書いたり、読んだりは苦手。

おそらく多くの人は、そういう人が日本文化を研究することは難しいと思うでしょう。

ところが、文化人類学においては、日本語は話せるけど、書いたり読んだりすることは不得手という研究者が、日本について大手をふるって語っている現状が存在します。

それがグローバル化がすさまじい日本についての文化人類学的研究。

残念ながら英語で書かれた日本についての文化人類学的研究の中には、日本語で書かれた文献はほとんど読まず、英語で日本について書かれた先行研究ばかりを読んで書かれたものがたくさんあります。
 

逆に日本語で書かれた文献をふんだんに使った、英語で書かれた日本についての文化人類学的研究が、先行研究不十分として審査で落とされるなんて話も。

文化人類学の基本は相手の文化を尊重することですが、相手国の言葉で書かれた研究成果が見事にないがしろにされるというへんてこな事態が文化人類学では起こっています。

おそらくこのあたりは、日本語の文献が読めないと話にならない、歴史や文学では違うでしょう。日本人顔負けの語学力をもった研究者が多いことはよく知られています。

日本語が十分に読めない・書けない文化人類学者が日本とはなんたるかについて、堂々と語ってしまえる現状。この現状に一矢を報いることができるのは日本語を十分に読めて、書ける文化人類学者しかいないはずなのですが、実際は一矢を報いるどころかやられてしまっているのが現状といったところかなと思います。

第49回文化人類学会のラウンドテーブルは間違いなく拡大し続ける英語帝国にどのように立ち向かうかという話でした。まあ一言で言うと、英語が母語の研究者の2倍の努力をして、日本語と英語の両方で成果を発表せよということなのでしょう。自戒を込めて。



2015年6月1日月曜日

『臓器移植の人類学 身体の贈与と情動の経済』 by 山崎吾郎

脳死があるから臓器移植がある。
臓器移植は命の贈り物である。

おそらく多くの人はそう考えるだろう。

しかしこの順序は全く逆であると著者は喝破する。臓器移植を行うために、「脳死」という新しい定義が必要になったのだと。臓器移植を制度として成立させるために、臓器移植を贈り物として定義する必要があったのだと。
 

純粋な善行としてとらえられがちな臓器移植の陰にある、提供者の家族の葛藤と苦悶は、この制度の拡大が実は死の領域の拡大とひそかに結びついていることを示す。しかしそのようなドナー家族の声は提供者が徹底的に匿名化される中でかき消されてしまい、私たちの日常に届くことはない。

それまでは「生きていた」人が、法案の改正によって突如「死んだ」ことになってしまう。そんな瞬間を生きた「脳死者」の家族の気持ちを考えたことが私たちはあっただろうか?

日本文化の特異性という文化論の中で見えなくさせられていた、この国における臓器移植の動向の詳細が、制度・経済といったマクロな側面と、提供を受けた人・提供をした家族というミクロな側面の両面から照らし出される。

明確な答えが書かれているわけではない。しかし私たちが「当たり前」と思っている世界を揺るがし、現実世界の複雑さを示すことが文化人類学の1つの仕事であるとするならば、この著は間違いなく、読み継がれるべき文化人類学の一作といえるであろう。