日本語は話せるけど、書いたり、読んだりは苦手。
おそらく多くの人は、そういう人が日本文化を研究することは難しいと思うでしょう。
ところが、文化人類学においては、日本語は話せるけど、書いたり読んだりすることは不得手という研究者が、日本について大手をふるって語っている現状が存在します。
それがグローバル化がすさまじい日本についての文化人類学的研究。
残念ながら英語で書かれた日本についての文化人類学的研究の中には、日本語で書かれた文献はほとんど読まず、英語で日本について書かれた先行研究ばかりを読んで書かれたものがたくさんあります。
逆に日本語で書かれた文献をふんだんに使った、英語で書かれた日本についての文化人類学的研究が、先行研究不十分として審査で落とされるなんて話も。
文化人類学の基本は相手の文化を尊重することですが、相手国の言葉で書かれた研究成果が見事にないがしろにされるというへんてこな事態が文化人類学では起こっています。
おそらくこのあたりは、日本語の文献が読めないと話にならない、歴史や文学では違うでしょう。日本人顔負けの語学力をもった研究者が多いことはよく知られています。
日本語が十分に読めない・書けない文化人類学者が日本とはなんたるかについて、堂々と語ってしまえる現状。この現状に一矢を報いることができるのは日本語を十分に読めて、書ける文化人類学者しかいないはずなのですが、実際は一矢を報いるどころかやられてしまっているのが現状といったところかなと思います。
第49回文化人類学会のラウンドテーブルは間違いなく拡大し続ける英語帝国にどのように立ち向かうかという話でした。まあ一言で言うと、英語が母語の研究者の2倍の努力をして、日本語と英語の両方で成果を発表せよということなのでしょう。自戒を込めて。