2016年12月19日月曜日

あなたのカラダは誰のもの?―プラスサイズモデルNaoさん講演会


すでに5回目を迎えた「からだのシューレ」。今年最後の企画は、プラスサイズモデルNaoさんの講演会!Naoさんについては、私がたまたまネットで記事を見かけたことがきっかけです。「講演会なんてしたことないです(汗)」といいつつ、「私の経験が誰かの役に立てれば」ということで、この企画が実現しました。


ラファーファのNaoさん。かっこいい!!


ふだんから雑誌やテレビなどメディアに出ていらっしゃるので、人前で話すなんて余裕だろうと思っていたら、講演の1時間前のNaoさんのツイッターのフィードに「緊張してきた…」の文字が。思いの外緊張していらしたようで、実際にお会いしたら本当に緊張していました(笑)



講演会には40人弱のみなさんがいらしてくださり、講演会がスタート。

Naoさんは、17歳から25,6歳まで拒食・過食を繰り返し、体重の変動は20キロ近くだったこともあったといいます。講演会の前半戦は、Naoさんがこの状態をどう抜け出していったかに焦点が置かれました。

面白かったのが、Naoさんがその道のりをドラゴンボールに例えていたこと。7つ集めたら願いがかなうというドラゴンボール。Naoさんにとってのドラゴンボールは「やせる」ということで、そしたら何かもっといい人生が待っているんじゃないか。そんな風に考えていたのではないかとNaoさんはご自身を振り返ります。

でもそんなドラゴンボールは実は存在していなかった。

「このままの体型でいいんじゃないか」、そう思えるきっかけを少しずつ集めたことがいまの自分につながっているとNaoさんは話されます。

Naoさんが悩んでいるときに、離島のおばあちゃんを訪ね、おばあちゃんから「あんたは何にも悪くない」と言われて涙を流すところは、こちらも思わず泣きそうでした。

またモデルになってから気づかれたことについてもお話しくださりました。太っている人、ぽっちゃりしている人に対して私たちが抱きがちなイメージが、いかにメディアによって作られていること、太っている人はなぜ笑いの対象になるのかなど、私たちが普段何気なく通り過ぎてしまうことに疑問を投げかけてくださり、まさに「モデル界の文化人類学者」(←命名、いその)としてのお話しが次々と続きました。




そして講演会後半は、Naoさんへの質問コーナーに突入。

「自分に素直になるってどういうことですか?」、「Naoさんにとって幸せって何?」といったかなり哲学的な質問から、「健診などで、このまま行くと不健康になりますよ。やせなさい!と言われたらどうしますか?」といったかなり具体的なものまで多くの質問が寄せられました。

それぞれの質問に対する、Naoさんの受け答えを聞いていて印象的だったのが、人から言われたことと、自分との間にワンクッション置くことを大事にしているということ、物事を1つの側面に光が当てられたら、違うところからも見られるんじゃないかと考えることを大事にされているということでした。

Naoさんの言葉の中に、「変わったのではなくて、気付いた」という言葉があり、これは自分自身を変えようとしたのではなく、いままでとは違う形で世界が見られることに気付いたことで、結果として変わったという意味だったのですが、まさにこれが「からだのシューレ」の目的です。

このことを私たちは「社会と身体の間にスキマを作る」という言い方で表現しいたのですが、「変わるんじゃなくて、気付く」というよりインパクトがあり、かつエッセンスを突いている、Naoさんの言葉も使わせていただきたいところです。(Naoさんいいでしょうか?)

講演会は盛会の後に終わり、多くの感想を頂きました。一部紹介しますね。
Naoさんの周りに流されない芯の強さにふれられてとてもうれしかったです。 
社会と自分の間にスキマは作れるんだ、と気づけた時間でした。気持ちが楽になりました。今後、就活・就職などで失敗した時、極端に落ち込むことがなくなりそうです。本当にありがとうございました。 
 今私は過食症を患っており、ふつうに食べることができれば良くて、過食しては気分は落ち込み生き辛いなと感じることが多々あります。そんな中でも、今回の「からだのシューレ」で新しい考え方、社会に対する見方を学びました。当たり前を疑う大切さを感じました。 
Naoさんが体験されたことや、そこから見出された考えや気付き、それを力強い言葉で語られていることがとても素晴らしく、とても素敵な方だと思いました。もっともっといろんな場面で発信していかれることを期待します!

今年最後の「からだのシューレ」は、Naoさんの素晴らしいお話のおかげで大成功の裡に終えることができました。Naoさん、ご来場くださったみなさま本当にありがとうございます。

そして、そして、「からだのシューレ」は来年も開催されます!文化人類学を中心に企画を考えてゆきますので、ぜひお気軽に足を運んでくださいね。

みなさま、よいお年を!


来年も鳥が飛びますよ



2016年11月16日水曜日

東田直樹 『飛び跳ねる思考』


人の目に映る自分の姿を想像しただけで、
この世から消えてしまいたい気分になります。
僕が抱えている心の聞は、どんな魔法をかけても消えません。
人は誰でも、心に傷を抱えながら生きているのではないでしょうか。
その傷が、すぐに癒える人もいれば、
いつまでも消えることなく残る人もいます。
そして、僕のように暗閣の中で悲鳴を上げ続ける人もいるのです。 
・・・ 
苦しくてたまらなくなると、空を見上げます。
目に飛び込んでくるのは、抜けるような青空と白い雲です。
見ている僕はひとりぼっちなのに、
世界中の人とつながっている気分になります。
自然はどんな時も、人々に平等です。
そのことが僕の心を慰めてくれるのです。
お日様は頭上を照らし続け、風は四六時中、僕の隣を通り抜けます。
木々の緑は美しく、空気は澄んでいます。
こんな自然の中でなら、ありのままでいられるのです。
つらい気持ちは、どうしようもありませんが、
ひとりではないと思える瞬間が、僕を支えてくれます。


東田直樹 『飛び跳ねる思考』


大ベストセラー『僕が飛び跳ねる理由』を書いた重度の自閉症者、東田直樹さんの著書から。彼の文章は心にまっすぐやさしく届いてきます。たぶんそれは彼がまっすぐやさしく文章を書いているからなのでしょう。

そんな文章を書くことは、自分の心をそのまま出すことなので、簡単そうでなかなかできないことなんだと私は思います。

会話のできない自閉症の僕が考えていること

2016年11月13日日曜日

小久保さん、守里君ありがとう


今週火曜日は国語教師ボクサー小久保さんの3年8ヶ月ぶりの勝利。

本日日曜日は、東日本新人王決勝戦での守里君の敗戦。

リング中央で勝ち名乗りを受けながら涙を流す小久保さん。

観客席にガッツポーズをする対戦相手の側で、コーナーポストに両手を付け、うつむき涙を流す守里君。

どちらの涙も私の中で忘れられない涙になった。

溢れる涙はこの瞬間に全てをかけた証。

勝利の涙は過去の自分に。
敗北の涙は未来の自分に。

そんなことを教えてもらった2人の試合でした。素晴らしい試合をありがとうございます。

2016年10月25日火曜日

私たちはいつ、人の目線で自分を見るようになるんだろう


ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさをきりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある鏡だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「自己満足」、という言葉に置き換えられた(129)

今回の「からだのシューレ」はいつもよりサイズを半分に縮小し、1部と2部に分けての読書会。とりあげたのは西加奈子さんの「きりこについて」です。




参加者は10代から50代までの女性と男性。

生きた年月もやっていることも大きく違うみなさんでしたが、皆さんどこかのタイミングで、他者から自分がどう見えているのかを気にするようになり、時にそれにとらわれてしまう経験をお持ちであることが印象的でした。

うちも自分のこと、ものすごくかわいいって思っていたやんか!(192-193)

学校でぶすだとののしられ、いじめに遭いとうとう登校拒否になるきり子が、こう気づくシーンがあります。

ここについて大学生の参加者からこんな発言がありました。

「小さいころの自分を思い出すと、私もそうだったんじゃないかと思います。親が無条件に愛してくれる。かわいいってどういうものかもわからないし、世間のかわいいもわからない。いまは雑誌に載っているモデルとかに影響されているけど、そういうのをいつから気にしだしんだろうか。どうして無条件に満足できていた自分では足りなくて、他からも求めてしまうのはいつごろだったのだろう?」

幼いころは、他人がどう見ているかなんて全然わからず、自分がどうしたいかしかわからないですよね。ところが私たちは次第に周りが自分をどう見ているのか、世間の尺度にあっているのか、年相応のことができているのか、デブじゃないか、ブスじゃないか、お金があるか、そんなことを気にしだしてがんじがらめになり、気付いたら自分が何をしたいのかわからなくなる―

こういうことを経験した方は多いのではないでしょうか?

私が4年にわたりインタビューをさせてもらった拒食・過食を経験した方たちも、他人の目というのにがっちがちに縛られていた局面があったような気がします。

でもこれはうまく食べられなくなった人たちに限らず、私たちみなが陥ることですし、世間にはふつうとか、常識とか、そういう言葉で他人の目に縛り付けようとするメッセージにあふれていることも事実です。

今回取り上げた「きりこについて」は、自分らしくすることの大事さを一方で強調しながらも、あるべき形からはみ出る人々を排除する社会との中で、どう生きたらいいのかを考えさせてくれる小説でした。

そして次回の「からだのシューレ」は、プラスサイズモデルNaoさんの講演会。今回に引き続き「自分らしさ」ってなんだろう、「外見ってなんだろう」ということを考えさせてくれる内容になること間違いなしです。

「やせなきゃ」と思うあなたの気持ちはどこからやってくるのでしょう?

参加制限はございませんのでどなたもお気軽にご参加下さい!







2016年10月23日日曜日

プラスサイズモデルNaoさん講演会



『からだのシューレ』では「身体というマーケット」、「身体と数字」、「ダイエットとけがれ」、「自分らしさ」といったキーワードをテーマにワークショップを行ってきました。 そして5回目となる今回は、プラスサイズモデルのNao さんをゲストにお迎えします。

私がNaoさんをぜひ「からだのシューレ」にお呼びしたいと思ったのは、こちらのNHKの記事がきっかけ。

10年間続いた暗闇を抜け出したのは、26歳の時。
出版関係のアルバイトで、芸能人の写真を何千枚と見ていて気付いたことがきっかけでした。

「痩せてるモデルさんみたいな人もいれば、ぽっちゃりしてる役者さんとか、いろんな方がいて。何か私、ずっと体型のことばかり気にしてたけど、そこに縛られてずっとこのまま生きてくのって、もったいないんじゃないかなってだんだん思い始めて。ぽっちゃりしてる体型を受け入れて生きていこうって」

世界についていままでとは違う見方をしたことで、それまでの苦しい道のりから抜けるきっかけを得たNaoさん。まさに人類学ではありませんか!

ということで、Naoさんにお話を持ちかけたところ、社会を少し引いたところから冷静に眺めるその姿勢はまさに人類学者そのものでしした。

「あなたはモデル界の人類学者です!」とは言いませんでしたが(思ったけど)、「ぜひ講演会を」とお願いしたところ、「講演会なんてしたことありません!」といいながらも、「私の体験が誰かの力にもしなれば」と快諾してくださいました。

Nao さんが思春期の頃に悩んでいた拒食・過食の体験、それを乗り越えていくまでの道のり、そしてモデル活動を通して感じた価値観の変化とは……。

「やせなきゃ」と思うあなたの身体は誰のものなのか、一緒に考えてみませんか? 

どうぞご期待ください。

※※※※※


「からだのシューレVol.5 プラスサイズモデルNaoさん講演会」

日時:12月3日 18:30〜20:30
場所:青山ウィメンズプラザ
会費:1000円

お申し込みはこちらから。

1回目から5回めの様子はこちらから。

2016年10月12日水曜日

かもめのたまご、ぶどう。


私の大好物の新作。ぶどうをいただく。

ほんとにぶどうである。

かもめの玉子の右に出るお菓子などいるものか。


2016年10月11日火曜日

BMJ掲載質的研究ガイドラインCOREQ ②―エスノグラフィーの大胆な定義





先回のブログで紹介した、BMJ掲載の質的研究ガイドライン「COREQ」。
それぞれの方法論の定義が大胆すぎてびっくりぽんなので紹介したい。

Theoretical frameworks in qualitative research include: grounded theory, to build theories from the data; ethnography, to understand the culture of groups with shared characteristics; phenomenology, to describe the meaning and significance of experiences; discourse analysis, to analyse linguistic expression; and content analysis, to systematically organize data into a structured format (p351)


これによるとエスノグラフィーは、「ある文化的集団において共有される特徴を理解するための手法」。文化人類学者では絶対できないだろう、大胆な定義にもはやかける言葉がありません…(笑)


これ、エスノグラフィーだけじゃなく、現象学の定義もすごいなと思う。「経験の意味と意義を描き出す手法」、とでも訳せばよいのでしょうか。現象学者の人、これで納得するのかな…。


でもこういうのを見ると、医療系で質的研究をする人にありがちな誤解、つまり「ある方法に則って調査を行えば、『文化が抽出できる』、あるいは『当事者の経験の内実がわかる』はず」のゆえんが見えてくる。

「文化」を描き出そう思い、エスノグラフィーの方法についての本を買って、そこに書いてある手法を1,2,3のステップでやっていけば、対象の集団に共有された文化があれよあれという間に抽出される

―なんてことはありません。


でもこんな権威ある雑誌にこういう風に書いてあれば、エスノグラフィーをやったら文化がわかると思って当然だよね。

エスノグラフィーにしても、現象学にしてもちゃんとやろうと思ったらそれぞれの方法のベースにあるモノの見方、文化人類学や社会学、哲学をある程度押さえておかないとそれなりの成果は出せないはず。

でもそこをすっ飛ばして方法の部分だけとろうとするから、上滑りな研究が量産される。

質的研究の方法について述べた書籍のほとんどは、その名前がどんなものであれ、データを意味内容別にカテゴライズする方法を教えている。でもカテゴリーを作ることは、質的研究の最終目的じゃないし、質的研究で一番難しいところはそこじゃない。


ただ方法論の本に、それ以上のことが書けないのは、質的研究とはどこまでいっても結局はデータの解釈の問題であり、それをどう意義深く解釈するかは、方法ではなく、研究者の見識にかかっているからだと思う。

そして質的研究で最も大事なその部分は、方法の本をいくら読んでも磨かれないのです。

でもみんな方法の本を読んで、方法のことばかりを指摘されて、結局だから、方法ばかりの質的研究になっちゃうんだよね…。

ちなみにデータの分類法に走らず、データの読み解き方を教えてくれているのは『エスノグラフィー入門』(小田博 著・春秋社)です。

質的研究概論IIの教科書として利用中