当然のことながら、全国の人文・社会科学者から「人文・社会科学をつぶすとはなんたることか」との怒りの声が上がっている。
私の専門の文化人類学も人文・社会科学に当たるため、この話は他人ごとではない。「人文・社会科学を縮小させるなんて、なんてあさはかな」、と思う。
ただ一方で近年のこの動きは自業自得なんじゃ?と思うところも多い。
たとえば、 私が大学で受けた人文・社会科学の授業は、1つをのぞいて、おしなべて恐ろしくつまらなかった。
先生が自分の専門領域のことをつらつらと話している。それが日常生活にどう結びついて、どう生かせるのかはさっぱりわからない。成績もAが来たけど、なんでAなのかは不明。
そんな私に、人文・社会科学教員はこういうかもしれない。
「それは自分で考えなさい」
「つまらなかったのは、あなたが面白さを見つける努力をしなかったから」
でもそんなことを言われても、あのころの私にはこれっぽっちも響かないだろう。
だってつまらないんだから。人のせいにしないでください、とでも言ってしまいそう。
私が人文・社会科学の面白さを知ったのはアメリカに留学してからで、日本の大学では残念ながらなかった。
人文・社会科学者は、人文・社会科学が面白くてたまらない、これがなかったら世の中荒んでしまうと心から思う学生を世に輩出してきたのだろうか?いまの私には人文・社会科学にかかわる大学教員の多くがそういう仕事をしてきたとはどうしても思えない。
自分の学問領域の中に閉じこもり、仲間内でしかわからない言葉を話し続け、わからない人は「教養がない」と足蹴にし、授業を適当にこなしてきた結果が、いまの状態なんじゃないだろうか。私は自然科学出身だから、人文・社会科学の言葉の特殊さ、わかりにくさはよくわかる。逆に、それゆえの面白さも、有用性も。
規模縮小に怒る気持ちもわかるけど、「そうさせてしまったのは結局自分たちなんじゃないか」、そういう視点がいまの議論には欠けている気がする。